9. 和音が僕の体を訪れた時の話

★視点★ 櫻小路愛雨さくらこうじあいう


 和音わをん夜夕代やゆよが、この体を訪れた時のことは、今でもハッキリと憶えている……と言いたいところだが、実は、記憶がところどころおぼろげだ。


 先ず、和音が僕の体を訪れたのは、今年度の一学期の中間テストを終えた後だった。


 その日、僕は、母さんから、なみなみと水を張った浴槽に顔を沈められるという折檻を受けていた。折檻の理由は、テストの成績が悪かったからだ。


 母さんは、僕が幼い頃から教育に熱心で、僕のテストの成績が悪いと、イーーッとなって僕の頬を叩く、髪を引っ張る、殴る、蹴る、などの激しい折檻をした。


 でも、思春期の僕が、母さんの背丈を追い抜き、成人男性の体格になると、流石に直接暴力を振るのを臆するようになり、その頃には、折檻をある男に代理させるようになっていた。


 その男というのが、母さんが「業多ごうださん」と慕う、もとは父さんの会社の従業員だった男だ。業多は、母さんの彼氏というか、いわゆる内縁の夫というか、見たところ母さんより少し若い感じで、腕に刺青が入っていて、とにかくガラの悪いやつだった。


 僕が中学三年のある時期から、平然と自宅に上がり込んで来ては、僕の目の前でこれ見よがしに母さんとイチャつくし、母さんがいない時は、意味もなく僕を蹴る、煙草の煙を僕に吹きかける、などの嫌がらせをする、とにかく最低のやつだった。


「お願いだよ、母さん、あんな男とは別れてよ」と僕が何度お願いをしても、「女一人で生きていく大変さが愛雨に分かる? 今の私には業多さんの援助が必要なの。愛雨だって業多さんがくれたお金で生活をしているのよ。業多さんに感謝しなさい」といつも逆にお説教をされる始末で、母さんは、まるで聞く耳を持ってはくれなかった。


 息子の僕がこんなことを言うのは変だけれど、母さんは、男癖がよろしくない。早くに父さんを亡くしたからか、業多に限らず、昔から様々な男と交際しているのを僕はこの目で見ている。


 重ねて息子の僕がこんなことを言うのは変だけれど、母さんは、イーーッてなる性格の関係で、恐らく普通の女性よりも性欲が強い。激しい感情の揺れや不安が、性的な欲求に変換されているのではないだろうか。とにかく、子供ながらに、薄っぺらな襖の向こうから、母さんとその彼氏たちの男女の営みの声を聞くのは、たまらなく嫌だったなあ。


 おっと、話しを戻さなきゃ。


 その日、僕は、母さんから、なみなみと水を張った浴槽に顔を沈められるという折檻を受けていた。折檻の理由は、テストの成績が悪かったからだ。


 母さんの折檻を代理する業多に、後頭部の髪の毛を鷲掴みにされ、窒息する寸前まで水中に顔を押し付けられる。僕は激しくもがく。頃合いをみて、業多が押し付けていた後頭部を水面から引っ張り上げる。この繰り返しだ。


 背後から業多のせせら笑いが聞こえる。僕がもがき苦しむのを見て楽しんでいるのだ。涙と鼻水を垂らしながら母さんのほうを振り向き、懸命に助けを乞う。母さんは、腕を組み、氷のような表情でただ黙って見ているだけ。


 苦しい。苦しいよ、母さん。助けて。助けてよ、母さん。ねえ、母さん、僕が何をしたの? 中間テストの成績が悪かった? 冗談でしょう? 5教科どれも80点以上だよ? 僕、じゅうぶん頑張ったと思うよ? もっと良い点数を取らなきゃダメ? でも、僕は僕なりに頑張っているんだよ? ねえ、母さん、どうしていつも叱るばかりなの? どうしてたまには褒めてくれないの? ねえ、母さん、僕ってそんなにダメな息子かなあ?


 死ぬ。このままでは確実に業多に殺される。今日僕は、このどこの馬の骨とも分らぬ反社まがいの男に殺されて死ぬのだ。ああ、短い人生だったなあ。つまらない人生だったなあ。


 何十回も浴槽の水面に顔面を沈められていると、なんだかもう、生きていることがバカバカしくなり、思わず僕は水中でヘラヘラと笑った。


 すると、どういう訳か、今度はその深い絶望を一瞬で打ち消すような感情が、心の底から一気に込み上げてきたのだ。


――業多をコ◯す。


 ただで死んでたまるか。母さんを堕落させた諸悪の根源、この業多という男だけは絶対に◯ロす――


 今日まで抱いたことのない残忍な気持ち。憎悪。殺意。何だ、この感情は? いったい誰の感情? 


 この刹那、僕の記憶は途絶えた。 



 それから、僕が意識を取り戻したのは、翌日の朝のこと。その間の記憶がまるでない。何も憶えていないのだ。この日、僕は、母さんから、業多とは縁を切ったこと、そして僕の体に、和音わをんという新しい人格が訪れたことを知らされた。


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僕の体に共存する三つの人格が、大好きな幼馴染を取り合う話 Q輔 @73732021

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