第13話 元婚約者の嘆き
老人は自らの患いを見せつけるかのように、長い爪をむき出した両手をアールベリアの目の前に掲げた。指先は小刻みに痙攣し、細かな作業ができるようには、とても見えなかった。
「私のこの指先で、何が生み出せる! 今の私には、もう何も残されていない!」
「後継者を育てることなら、可能でしょう」
アールベリアが氷のような眼差しで、書類の一枚を束から引き抜いて、老人に見せた。
「現在あなたが請け持っている生徒の名簿です。一番最後の欄に、ネオン・シュトライガスの名前が」
急に出てきた弟の名前に、エリーゼがびっくりしていると、隣の彼が振り向いた。
「エリーゼさん」
「あ、はい」
「貴方は長らく別館に閉じ込められていましたよね。本館から、バイオリンの音は聞こえてきましたか? 楽器を習いたての素人が演奏する音色は、よく音を外すのでわかりやすいです」
「いえ、なんの音も聞いてないわ……」
そもそも弟がおとなしく座って楽器を習う姿が、想像できないエリーゼだった。
アールベリアが、再び老人に向き直る。
「あなたは何を教えに、ネオンさんに会っていたのですか?」
「なぜそのようなことを聞く」
「ネオンさんは大きなナイフをオモチャだと言い張って、振り回していました。あの凶器は、あなたが託した物では? ナイフの購入記録もありますよ」
また書類の束から一枚引き抜かれた。彼が用意していた証拠というものは、とことん老人を追い詰めていく。
そして、隣に座るエリーゼのことも。
「ドナス様、あの……私のこと、剥製にするおつもりだったのですか?」
蒼白した顔で尋ねられて、老人は視線を斜め下に、無言を貫いた。
「こんな私が言える立場では無いけれど、私は、あなたの病気を心配していました。父も、あなたの病を気にしていました。それなのに、あなたは父を裏切ってネオンに危ないことを教えていたのですか!? どうして、いえ、いつからそんなことを。私のせいなのですか!?」
老人の薄い唇が、痙攣とともに開かれた。
「求められたからですよ、エリーゼ様」
予想外の返答に、エリーゼは戸惑った。そんな彼女を、下から舐め回すように老人が見上げる。
「シュトライガス家は、貴女を求めている」
「……。私は、十年近くも別館に閉じ込められて過ごしました。誰からも、必要とされていなかったからだと思います」
だから求められるわけがない、とエリーゼ自らが否定した。ドナスは震える足の傍らに傾けていた杖を片手に持つと、ゆっくりと立ち上がった。
「ここまで知られてしまったからには、長居は無用です。このドナスめは、高貴なるシュトライガス家に生涯お仕えすることができて、誠に光栄な人生でございました。『血の交わり』が薄い私でも、見捨てず抱えてくださったのだから」
聞きなじみのない言葉が出てきて、その不穏さにエリーゼは眉根をしかめた。
「エリーゼ嬢」
老人が鶏の骨のように細い喉を震わせて、わなわなと片腕を伸ばすとアールベリアを指差した。
「その男に愛想が尽きたら、いつでもこの城からお逃げなさい。この男の通り名は『静かなる猛毒』だ。この者は、あなたも他者も、皆を不幸に陥れる。あなたもシュトライガス家の娘ならば、真っ先に切り捨てる者は彼であると、いつかおわかりになるはずだ」
「は、はあ……」
危機迫る顔の老人に、エリーゼは苦笑しながら、できれば二度とこの老人に会う機会がなければと願うのだった。
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