第12話 怒りの元婚約者
ノウス婆やそっくりの、イースト婆やが駆けてきた。何をしているんだ客人が待っているのに、とキンキン捲し立てるので、エリーゼもアールベリアたちと同行することにした。
「もうほんっとに嫌になりますよ! やれスコーンが固いだのお茶がぬるいだの、文句ばっかり言われて! いくら前日に来訪を知らせる手紙が届いたからって、ぼっちゃまが留守の間にアタシが勝手に封を開けられるとでも思ってるのかしら、ああもうほんっと嫌になりますよ! 目下の者たちの都合というものが、まるでわかっていないのです!」
「その手紙って、昨日のいつ頃に届いたの?」
「昨日の朝ですよ! 配達人が不慣れな男性で、お墓を怖がってなかなか近寄ってこないものですから、アタシから声をかけてやりましたよ! もうほんっと嫌になります!」
エリーゼがひょこっと彼の背中から顔を出した。
「黒色に銀の粉がまざった封蝋でしたか?」
「え? ええ、気持ちの悪い模様でしたわ。アタシ黒ってだいっ嫌いなんですの!」
イースト婆さんをあまり刺激しないよう努めながら、エリーゼは他にも聞き出すことにした。
「そのお手紙は、今どこに?」
「今さっき、ぼっちゃまにお渡ししました。もちろん、ペーパーナイフ付きでね!」
しかしアールベリアはまだ開けていないと言う。エリーゼは彼を急かして、応接間の扉の前で開封させると、みんなで中身を確認してみた。
(この封蝋は、隠居されているドナス様のもので間違いないわ。シュトライガス家の血縁者の封蝋は、なぜか黒なのよね)
内容は案の定というか、まだ成人前のアールベリアが他人の婚約者を横取りしたことについての猛抗議であった。
エリーゼは彼を見上げた。
「貴方はこの人のこと、ご存知かしら?」
「実際にお会いするのは今日が初めてですが、調査済みです。現公爵様の、バイオリンの講師をお勤めに。お耳が遠くなられてからは、全ての音楽活動から手を引かれてしまったそうですね」
「詳しいのね」
婚約者を奪い取った側が、顔も知らない奪われた側について調査済みとは。気まずい流れを感じるエリーゼ。
「貴方の迎えが来るまでは、彼が私の婚約者だったの。それもご存知?」
エリーゼが苦笑すると、アールベリアは首肯した。
「エリーゼさん、彼に会うのを戸惑われるなら、僕一人で接客しますよ」
「差し障りなければ、同行したいわ。あの人がここへ来たのは、婚約を無碍にされて激怒しているからよ。でも、私は貴方の隣りが、とても居心地が良いの。だから私からも、あの人に謝らないとね」
エリーゼが選んだ未来だった。これまで、父から用意された物を受け取るだけに甘んじていた彼女が、一番最初に選んだものだった。
アールベリアは嬉しく思ったが、同時に、こんなに早く彼女を危険に晒す羽目になるとは思わず、先が思いやられた。だが、彼女の命を守るためには頑張らねばと切り替えて、己を鼓舞した。
「少し待っていてください。ドナスさんと闘うには、事前に調査して作った書類が必要なんです」
「あら、徹底してるわね。頼もしいわ」
脱兎の勢いで資料を取りに行く彼が、あの暴れ馬よりも速くて、エリーゼは目を丸くして見送った。
「わんぱくなところは、変わらないみたいね……」
シュトライガス家の遠戚である老人、ドナス・オーガスタが応接間のソファにゆったりと腰かけていた。エリーゼが想像していたよりもずっと痩せこけており、指先は神経質そうに震えている。
「お待たせいたしました、ドナスさん」
婚約者を横から掻っ攫っていった若造が、しれっとエリーゼを連れて戻ってきたのだから、声を荒らげても誰も咎められないほど緊迫した空気が流れた。
老人が何か言う前に、エリーゼが前に出て、老人の輝かしい経歴を褒め讃えた。少しでも冷静に、話し合いができれば良いと考えた作戦だったのだが、
「……それも若い時のこと。どうにも歳にはかないません。まずは左耳からおかしくなり、次第に右も。平行感覚を保つのが難しくなり、杖に頼らざるをえなくなりました。それでも音楽に携わっていたくて、この身に響くリズムを慰めに、常に音楽を探しておりました。音楽は私にとって、他者の心臓の鼓動も同じでした。しかし、そこから派生する振動もだんだんと感じられなくなり、今では長椅子に長々と座って、うたた寝をする余生を過ごしております」
「……」
大好きで生きがいでもあった音楽から、年齢を理由におのずと遠ざけられてしまった音楽家。なんと声をかければよいのやら、エリーゼは言葉を失い、目を伏せた。
「最後に、別館で苦労されているとお噂のエリーゼさんを、うちで貰い受けてのびのびと過ごされてほしかったです。今の私には、あなた様の足音に機敏に反応する事は、できなくなりましたが、それでも、振り向いた先で、あなた様が優しく微笑みかけてくださる生活を、年甲斐もなく、楽しみにしておりました」
悲しげな声で、今にも枯れて折れてしまう枝のように弱々しい姿で、そんなことを言われてしまっては……エリーゼの心は罪悪感の槍で串刺しになってしまった。
(私との結婚生活を、そんなに楽しみにしてくれていた人がいただなんて……私は、とてつもなくひどいことをしてしまったのね。どうしたら許してもらえるかしら。私にできることなら、何でもして償いたいわ)
老人と対峙する形で設置されたソファにも、座れないほど身をふるわせていたエリーゼだったが、アールベリアに手を引かれて、一緒に座った。
「今後は妻の気を惑わす発言は、お控えください。手紙で呼び出すなど、もってのほかです。あなたに負い目を感じる彼女は、あなたの召喚や要求を断ることに抵抗があります。それを承知で利用されているように感じて、夫である僕は非常に不愉快です」
きっぱりと水を差すアールベリアの冷たい声色に、エリーゼはギョッとした。生きがいを失った老人に、さらに鞭打つような発言に思えて、これはまずいと、何か話題を変えたり、彼を諌めなければと大慌てした。
ソファに深く腰掛けていた老人が、白く細い眉毛を険しく吊り上げる。
「未だ家督も継げぬ身の若造が、いきなり人の婚約者を奪い穢すなど言語道断だ! 私の胸の内の鳴り止まぬ嘆きを、ほんの少しでも彼女に伝えたところで罰など当たらぬだろう! 私が何をしたところで、彼女の処女性は未来永劫、君の手の内なのだから。かわいそうに、こんな常識外れの陰湿なガキに、身も心も穢されて。すっかり魅了されておる」
まだ寝所を共にしたことはないのだが、これがセクハラというものかと、エリーゼは驚き混じりで学んだ。
一方のアールベリアは、用意していた大きな封筒を両手に準備した。
「あなたには他に生きがいがあるはずだ。音を失ったあなたは、振り向けば微笑みを絶やさない相手を求めて、すがったモノがあったはず。それは何だったでしょうか」
大きな白い封筒に、まとめて入れていた書類の束を、引っ張って取り出した。そして細かくびっしりと表記された紙面を、老人に見えるように手に持った。
「あなたは長年の音楽活動の傍らで、動物の毛皮などを大量に買い込んでいましたね。その羽振りのよい出費を怪しまれ、国から何度も調査が入りましたよね。僕も偶然それらを目にする機会がありました。近年は、剥製や人形を作るための道具が、ダース単位で発注されていました。こんなに素敵な生きがいがあるのに、監査が入ったあなたの別荘の、どこにも、人形が見つかった記録がないんです」
「上手く作れなかったんだ。不格好だから、恥ずかしくて全て捨てているんだよ」
「野犬の多い山にでしょうか?」
「……」
「あなたはこの国の法律をご存知なんですか? どんなにお金持ちに嫁いでも、貴族の女性には財産権がないのです。今現在自ら稼ぎ続けている女性ならともかく、長らく軟禁されていたエリーゼさんは、強制的に誰かと結婚し、家庭に収まらなければ生きていけません。あなたはエリーゼさんの身の上を知っていましたよね。二十歳を過ぎても別館に軟禁されてきた彼女に、自立できるだけの経済力があるように見えますか。あなたに万が一のことがあったら、彼女に剥製の手入れを押し付けるつもりだったのですか? それとも彼女を無一文で屋敷から追い出し、剥製だらけの館を親族に残すつもりだったのですか?」
「な」
「あなたは彼女のために、自分に何ができるかを考えたことがないんですか? いいえ、考える必要なんてないですよね。どんな時でも振り向けば笑ってくれる相手なんて、人形しかいないのですから」
老人が今にも身を乗り出して、青年に掴みかかってきそうだった。
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