第10話   霊廟の王子

 彼の領土はとても遠くて、道中でたくさん休憩を取り、夜を過ごすために宿に泊まった。同じ部屋には泊まらなかった。もう帰る場所もないのだし、実質嫁に来たも同然なのだから、とこが同じでも気にしないつもりのエリーゼだったが、一人静かな暗い部屋でぐっすり眠っていると、今の自分の心身にはこの時間が必要なのだと、翌朝の窓辺から見える美しい景色を見ては思うのだった。


(きっと彼も、何か大きなものを失うたびに、一人でぐっすり眠っていたのかもしれないわね。……そしてじわじわと元気を取り戻しながら、ようやく立ち上がってきたのかも)


 彼はエリーゼの朝が早くても遅くても、何も言わなかった。彼女のペースに合わせていた。誰かが合わせてくれるという日常に不慣れなエリーゼにとって、それは非常に申し訳なくて、早起きしすぎない程度に早起きするよう心がけていたが、一度だけ疲れてぐっすり眠ってしまい……さすがに部屋をノックされた。


「エリーゼさん、お昼の二時ですよ」


「えええええ!? ご、ごめんなさい!! 私ったら!!」


「あ、いえ、急かすつもりはなかったんですが、生きてるかなぁと思って……」


「それは安心してちょうだい。新婚早々に自ら命を断つことはしないわ。お店にも迷惑だし」


 手櫛で髪を整えながら、急いでベッドから下りるエリーゼ。扉を開けても良いかと彼が聞くので、何か用なのかと許可すると、細く扉が開かれた。


 一瞬、馬車の扉にすがりついた弟の顔が蘇ったが、現れたのは、心配そうに眉毛を寄せる彼の姿。元気そうなエリーゼの様子に、ホッとした顔になった。


「準備ができたら、出発しましょう。今日中には着きますよ」


 既にここは彼の治める領土だった。ここまでの宿代も、身綺麗にする最低限の化粧品も、彼に与えられた物。だけど今までの軟禁生活と違うのは、彼女に選ばせてくれたことだった。



 壁にぽっかり穴が空いたままでは危ないので、道中で修理した馬車で進むこと半日……茜色に沈みゆく景色が、眼前に広がっていた。


「暗くなってきちゃったわね。ごめんなさい、私がとんでもない時間に起きたばっかりに」


「この辺はいつも暗いんですよ。周りを山で囲まれているので、日が落ちるのが早いんです」


 エリーゼの形の良い茶色い眉毛が、ひょっこり上がった。


「その情報、貴方からもらった大量の書類に書いてあったわね。貴方の愛する領土のことが、すごくわかりやすくまとめてあったわ」


「すみません、字が下手で」


「そんなことないわ。独特な癖字だとは思うけど、全然読める範囲だった。可愛い文字ね」


 読書好きで、情報収集が趣味なエリーゼにとって、読み物は大変楽しい癒しの時間であった。文字を集中して目で追っている時だけは、戸惑いや悲しみを自分から切り離すことができる。


 ふと人の声がして、エリーゼは馬車の窓を開いてみた。エリーゼと同じ髪色の、しかしどこか毛色の違う領民が、街を闊歩する黒い馬車めがけて挨拶している。


 その中で、気になる呼び名が何回も出てきた。「霊廟の王子」と。


(アールベリア君のことかしら。もらった資料によると、どういうわけか各地から、亡くなった人の遺灰の一部を、遺族の方々がわざわざこの土地まで運んできて霊廟に納めたり、お墓を建てていくのよね。この土地は、静かで清らかで、よく眠れそうだからって理由で……)


 領民は暗くなる前に家に戻りたいらしく、足早に去っていく。空もどんどん日が落ちていく。


(なんだか、寒くなってきたわ。日が落ちるのが、早いせいかしら)


 腕をさすりだすエリーゼに、アールベリアが気がついた。彼はこの長旅の中、彼女が今までどう過ごしてきたか、何が好きか、どんなことが嫌か、たくさん質問していた。すぐにでも同棲が始められるようにと、彼女についていろいろと把握したかったからだ。彼女には特別なこだわりなどがなく、何かを極端に嫌うこともなく、同棲にはこれといった問題はなさそうで、しかし、それがなんだかアールベリアには不満だった。


 エリーゼが、人間らしい一面を見せてくれないのである。何を聞かれても、無難な答え。わざと言っているのではなくて、本当に何も知らないようなのだ。


 彼女の世界には、「好き」とか、「どうしても譲れないモノ」が無い。話し相手がいるだけで、本当に満足しているのである。


「寒いですか?」


 尋ねると、驚いた顔をされた。でもすぐに微笑んだ表情になる。


「少しだけね。でも平気。私が温室育ちで弱いだけだから、これくらいがちょうどいいわ」


 物もほとんど欲しがらない。アールベリアが品の前に連れてきて、選ばせて、ようやく買い物をする始末。


「そういえば、貴方はいつもそのローブで頭部を隠しているわね。私、頭髪の濃さにこだわりとか、ないわよ?」


「毛髪は多い方ですよ。エリーゼさんは、僕の髪と目の色を見て、変に思いませんか?」


「思わないわよ。十年前から、特に何とも思わなかったわ。あ、もしかして、気にしてるから黒いローブで覆い隠してるの?」


「……」


 青年が照れ半分気まずそうに身じろぐ姿が、ようやく年相応に見えて、エリーゼはちょっと安心した。彼があまりにもしっかりしているから、そんなに気を張らなくてもと心配になっていたのだ。


「僕の……」


「うん?」


「僕の、髪の色……本当に変に思われないのでしたら、この上着お貸しします」


「あら、それじゃあ、お言葉に甘えて借りちゃおうかしら」


 冗談で言ったつもりのエリーゼ、彼が本当に上着のリボンをほどき始めたので、ちょっとびっくりした。


 すっかりフードの重みで押された銀色の頭髪は、まさか自分で切ったのだろうか少々不揃いで、顎の下をゆらりと揺れていた。



 黒馬車が停車する頃には、満月がぽっかりと浮かんでいた。


「着きましたぜ、お二方。長旅お疲れ様でごぜぇました」


 馭者が静かに馬車を停止させた。


 アールベリアが先に降り、エリーゼの手を取って馬車から降ろした。


「おや? ぼっちゃん、フードはどうしたんです? ヒヒ、人前で御髪を晒すのは久方ぶりですなぁ」


「明日は街まで、エリーゼさんの上着を買いに行こうと思う」


「あいよー」


「ええ!? 馭者さんもお馬さんもお疲れでしょ!? 私なら平気。むしろ新しい環境に慣れないと」


「ヒヒヘヘ、この年寄りにこれ以上の労働は無理ですよ。明日は別の馭者と交代いたします」


「そうですか、よかった」


 この老人は、道中ずっと馬の手綱を握ってくれていた。腰はひどく曲がっているけれど、馬に鞭を打っていたのは館からの脱走劇だけであり、後は手綱のみで馬たちを操り、気になるほどの揺れも生じさせない腕前だった。


「馬たちは明日も、こいつらですがね。どれも猫被りの暴れ馬ばかりで、毎日散歩させてやらないと、余りある体力で馬小屋を破壊するんでさ」


「え、破壊!?」


 そう言えば、とんでもない全速力をあげて館から脱出してくれたのは、この馬たちだったとエリーゼは思い出した。


 馭者が空っぽになった馬車を操って、静かに馬小屋へと退場してゆく。それを見送りながら、エリーゼの視線は自然と辺りに注がれた。


(え……なぁに、ここ。白いお墓と四角い霊廟だらけだわ)


 花や果物が供えられた静かな墓石が、所狭しと、向きもばらばらに。アールベリア家の紋章が壁に彫られた、石造りの霊廟は、墓たちを見守るように、広い土地に点在している。


 とにかく広い土地だった。墓と霊廟で、びっしり埋め尽くされており、不気味さを通り越して圧巻だった。神聖だとすら思えてしまう。


 そして、どうしても視界に入り込んでくる強烈な景色……あの遠くそびえたっている、二つにばっくり割れた谷。満月はその間に浮かんでいた。黄色い光を後光のように背負う、巨大で幽玄な古城が、ものすごい威圧感を放ちながらエリーゼを見下ろしていた。


 エリーゼは、目眩がしていた。墓と霊廟に使用された白い石材と、同じ色をした荘厳な古城が、彼が「霊廟の王子」たる所以であると知ってしまったから。


 肌寒い夜風とともに、アールベリアが彼女を追い抜いてゆく。ローブを脱ぐまで隠されていた、上等なベストとジャケット。彼もまた彼女を迎えるために、正装していたのだ。


 黒い谷に、黄色い満月。夜でも輝く白い石材は、彼の髪の色とよく似ていた。


「ようこそ、睡銀すいぎんの古城へ」


 振り向いて弧を描く瞳は、月と同じに見えた。


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