第9話 「貴女はすでに我が妻も同然」
「エリーゼさん……」
優しく揺り起こされて、気絶から復活したエリーゼが最初に見上げたものは、彼だった。全てが夢だと思いたいのに、彼のすぐ横にはぽっかりと空いた大きな壁の穴が。
(あれは夢じゃなかったのね……。馬車から振り落とされたネオンは、大丈夫だったのかしら。小柄な割にはメイドを押しのけたりと、力の強い子だなぁとは思ってたんだけど、まさか、爆走する馬車に張り付いて扉を取っちゃうだなんて……)
改めて自分が見てきたものを思い返すと、身が震えた。だんだん辛くなって、持参した薄桃色のハンカチで、目頭を片方ずつ抑えるようにして涙を吸い取る。
「ねえ、あれは本当に私の弟だったの? 別の化け物に、すり変わったとかじゃなくて?」
「……」
「弟はきっと、何かの病気だったのよ。獣のように豹変する、何かの病気にかかったんだわ……すぐにお医者さんに診てもらえるように、お父様に手紙を書かなきゃ」
エリーゼは体の震えをこらえて、彼を見上げて微笑んだ。
「貴方も、驚いたでしょう。ケガは無いかしら?」
「はい」
「それはよかったわ」
まだ頭が混乱していて、エリーゼはもう少しだけぼんやりしていたかったけれど、目に涙を浮かべたまま沈黙してしまう女性を横に、アールベリアは無心を貫けなかった。いつ手を離そうかと迷っていた片手は、まだ彼女の体を抱き寄せていて、気丈なふりをする彼女の震えが全て伝わっていた。
「僕が貴女の婚約者に立候補したのも、今日早々に貴女を連れ去ったのも、理由があります。落ち着いたら、お話ししますね」
「はい……」
「それと、揺れる馬車の中で申し訳ありませんが、僕の領土に入るまでに、ここにある大量の書類に目を通していただけませんか」
「え?」
「僕も一緒に読みますから。わからないところがあれば聞いてください、僕は字が下手なので、どうかご遠慮なく」
そう言って彼は、やっとエリーゼの細い肩から腕を引き抜くと、壁と椅子の間にできたわずかな隙間にぎっしりと挟めていた書類を、すっぽりと引き抜いた。
それをエリーゼに、どっさりと手渡す。パッと見ただけでも、とんでもない量だった。
「え」
「馬車が粉々に破壊されなくて、よかったです。大量の書類を拾い集めるのは、骨が折れますからね」
「このドキドキ鳴ってる心臓のまま読み物だなんて、できないわ。もう少しだけ、休ませてちょうだいね」
アールベリアはうなずき、彼女の膝の上の書類を、また元の位置にしまった。
(エリーゼさん……本当は僕に対して、いろいろ問い詰めたいことがあるはずなのに、僕の事まで気にかけて、今は何も聞かないでくれようとしている。こんなに良い人が、なんであんなところに閉じ込められてなきゃならなかったんだ)
そして彼女は、身内を愛しているようだ。豹変した弟の様子に、嫌悪ではなく涙した。何かの間違いだと、弟を庇おうとしていた。
「……もう少し行った先に、休める宿があります。そこで食事と休憩をとりましょう」
「あら嬉しいわ、お腹空いてたのよね。持ってきたカバンの中に、少しお金が入ってるのよ、持参金とは呼べない額だけど、しばらくお小遣いには困らないわ」
ずっと別館で飼い殺し状態であった。エリーゼは、勝手に誰かのお金が消費され、好きに選べない食事が出されて、何一つ選べない毎日が過ぎていくことに抵抗があった。少ないけれど、持ってきたお金で好きなものを食べたいと思っていた。
そんな生活の第一歩目は、あっけなく崩れてしまった。エリーゼのカバン……思い返せば、アールベリアに手を引かれて馬車に引っ張りこまれた際、彼女は、手ぶらだった。あのとき荷物はメイドたちが持っていて、本来であれば馬車のトランクに載せるはずだったのだ。
さぁっと青ざめるエリーゼ。
「……私、全部あの家の玄関に、置き忘れちゃったみたい……着替えも、お母様の形見も……」
「それは……大変お気の毒ですが、引き返す事はできません。貴女に一生恨まれる覚悟で、僕はこの馬車を走らせました。貴女はすでに我が妻も同然。ヴォルフェンス家の名において、絶対に貴女を返すことはできません」
「……私も、貴方にあの場所へ引き返してほしいなんて、言えないわ。もうあの家は、十年前に貴方が花束を贈ってくれた場所じゃ、ないみたいだからね……」
誰も傷付いてほしくないから、戻らない道を選んだエリーゼ。しかし、残してきたのは、母の形見……。
それがどれほど辛いものか、アールベリアは理解したかった。たとえ全く同じ感情を持つ事は、不可能だとわかっていても。
「僕も、一年前に両親を見送りました」
「え?」
「十年前のパーティで、エリーゼさんも見かけたと思いますが。あの時点で両親は七十を超えておりました。お二人とも大往生で……羨ましいくらいでした。でも、もう少しだけ一緒にいてほしかったです」
「そう……貴方も大変だったのね。私は父が生きているけれども、仲が良くないの。それでも、生きててほしいって思うわ。仲良しな親子だったら、きっともっと……たくさん話したいことが、これからもどんどん湧き出てくるでしょうね」
もしも今、生きていたら……そんな想像ばかりしてしまい、それが手に入らない今が、とても残念で寂しい時間に感じてしまう。
「そうね……もうあの家には帰れない、そう思った方が、いろいろと吹っ切れるわね!」
エリーゼが笑顔で、ブランコに乗る少女のように体を揺らした。
「それじゃあ、貴方の領土に着くまでは、お金はお世話になろうかしら。でも、それ以上の迷惑はかけないわ。貴方の領土内のどこかで、働くから」
「エリーゼさんが商売を始めてみたいと言うのなら、応援はしますが……」
「そんな、大げさよ。お商売を始められるほど経験豊富ではないの。どこかで雇ってもらうわ。私、本当に何も持ってきていないから、このまま貴方にお世話になるのは、申し訳ないのよね」
今日初めて婚約相手を知り、今日初めて十年ぶりに顔合わせた、そんなエリーゼにとって、彼は果てしなく他人であった。甘えるのも頼るのも、激しい抵抗を感じる。
本人がいくら笑顔のつもりでも、本心でなければ苦笑と同じ。そして機微や違和感とは、他人に伝わってしまうもの。
「申し訳ないだなんて、思わなくていいですよ。戻る家も、貴女の生きる場所も、これからは僕の隣り以外にありません。貴女の一生を縛る足枷となった僕のほうこそ、申し訳なく思います。家もぼろぼろだし」
「ふふ、古いお家なの? 実家に比べたら、きっとどこも天国だわ。それに、貴方は私とちゃんと会話してくれる人。会話ができるだけで、私は充分よ」
彼女が今までどんな生活をしてきたのかと想像すると、悲しみと怒りが湧き上がるアールベリアだった。
(僕はまだ成人していないから、合法的に彼女を妻にできない……。あと一年間、絶対に彼女を奪われないようにしないと。けっきょく僕も、彼女を軟禁してしまうのか……。それでも、やるしかないんだ。今のままじゃ、彼女が殺されてしまう)
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