第8話 まさかの逃避行
迎えの馬車がすぐ玄関の先まで来ていると聞いて、エリーゼはスカートの裾をつかんで急いで階段を下りていった。
花嫁衣装も兼ねた白い清楚なワンピースの、袖や襟元には白い花をあしらったレースがひらめき、マーメイドラインのスカートの後ろにスリットが深く入っていなかったら、とても走っていけなかった。
玄関扉は既に開かれており、あとはエリーゼが外に出るだけ。わざわざ交通に不便なこの別館の玄関まで来てくれたのだから、待たせてはならないとハイヒールの両足に鞭打って急いだ。
付き添いのメイドたちに「お嬢様、はしたないです。歩いてください」と何度も注意されて、それもそうかと我に返り、しゃなりとした足取りで玄関の扉をくぐっていった。
今にも降ってきそうな薄暗い曇天の下、腰の曲がった老齢の馭者が手綱を握る、真っ黒な馬車。その真横に、黒いローブをまとった魔術師のような出で立ちの青年が立っていた。
(え……? 何かしら、あの格好。古書の挿絵で、似たような服装を見かけた気がするんだけど……なんて名前の本だったかしら)
ローブには大きなフードが付いており、青年の顔を半分ほど隠してしまっている。わずかに覗く白銀の髪が、唯一、十年前のあの無邪気な少年であることを示唆していた。
青年はフードを被りっぱなしなことに気が付いたのか、慌てて取り払う。すっかり大人びた、そしてどこか影のある雰囲気の美しい青年だった。顔半分が陰るほど彫りが深くて、わずかに寄った細い眉毛が、物憂げな表情を作りだしている。彼はエリーゼのドレス姿に、レモンイエローの瞳を開いていたが、やがて咳払いして少し顔を背けた。
「お久しぶりです、エリーゼさん」
声もすっかり低くなっている。中庭でケンカして甲高い声で大泣きしていた少年は、どこにもいなかった。
「十年ぶりかしら、元気だった?」
「はい。エリーゼさん、そのドレスすごく綺麗です」
青年が見るからに緊張しているから、申し訳ないけれど、エリーゼはおもしろく感じた。まだ成人しておらず、家督を継ぐ手続きにもばたついているらしい、それでもすぐに同棲を申請するほどだから、どれほど強引な青年に成長したのかと少し不安だったが、穏やかな雰囲気で安心した。
「……間に合ってよかった」
「え?」
「あっ、なんでもありません。僕のこと、覚えていてくれて嬉しいです」
「忘れたことなんて、一度もないわ。大きくなったわねぇ、アールベリア君」
レースの着いた手袋の片手を頬に当てて、頭二つ高いアールベリアを見上げた。十年前はエリーゼがしゃがんであげないと、背が並ばなかった。
(今年で、十五歳になるのよね……。本当にうちのネオンと同い年なのかしら、むしろ私と同年代に見えるわね……指摘したら失礼だから言わないけれど)
なぜ彼が、不遇な身の上の自分を貰いたいのかと、すぐにでも尋ねたかった。彼の領土もまた遠く、気軽に何度も往来できない。そしてそれだけが理由で早めに縁談話を進めたがる人には、見えなかった。
(さっきの、間に合ってよかった、ってどういう意味なのかしら。なんの期限が迫ってたんだろう)
「エリーゼエエエ!!」
喉が裂けるような大絶叫に、エリーゼがびっくりして振り向いた。血相変えたネオンが走ってくる。
「もう行っちゃうの!? 早いよ。さっきまで別館にいたじゃん!」
「ええ、ついさっきあなたを見送ったわよね。その後すぐに、アールベリア君が来てくれたみたいなの」
目尻を吊り上げて荒い息を吐いているネオンのために、エリーゼは簡単な自己紹介をアールベリアにお願いしようとした、そのとき、
彼が弟の右手首を掴んだ。無理やり捻って、手のひらを上向かせる。
「なんだよ、離せよ!」
振り解こうとするネオンだったが、体格差もあり、あっけなく手首内側に仕込んでいたナイフを晒してしまった。袖に柄を挟んで固定してあるだけの粗末な隠し方だったが、ネオンの手が小さいこともあり、まさかこんなところに鋭利で大きな刃物を隠せるように見えないのが、余計にタチが悪かった。
こんな手で最後の握手やハグなどしようものなら、脇腹に……エリーゼはぞっとしたが、愛する家族にそこまでされる心当たりがなく、ふざけ半分で持ち出したのだと思い直した。
「ち、違うのよアールベリア君、これには弟なりの理由があるの」
「理由とは? お姉さんの衣装を傷付けるかもしれない刃物を、至近距離まで近づける理由は、何なのでしょうか」
アールベリアはナイフを没収した後、ネオンの腕を解放した。刃渡りがとんでもなく、先端がこの天気でもギラついて見える。
「オモチャだよ!」
顔を上気させ、ナイフを指差すネオンの前で、アールベリアはおもむろに胸ポケットから白薔薇のようなハンカチを取り出すと、ナイフの刃をぐるぐると包み、軽く引いた。
バラバラになった布切れが、姉弟の足元に散らばった。
「よく研いであります。これだけの切れ味を出せるナイフが、あなたにとってはたかがオモチャなんですね」
目を剥いたネオンの顔は獣のようだった。今にもその腕に噛みつかんばかりの勢いを避けると、アールベリアはエリーゼの片手を掴んで、強引に馬車に引っ張りこんだ。
「サウス爺!」
「あいよ!」
鞭打たれた馬たちが痛々しい嘶きをあげたのが、エリーゼの心にグサっときた。馬車の扉もまだ開いたままで、これも良くないのではないかとエリーゼがアールベリアに忠告しようとしたその時――走りだした馬車の扉を、子供の片手が掴んだ。わずかに見える袖口の作り、弟ネオンの手だ。
全速力で走る馬車に、片手だけで弟がしがみついているのだ。
「ネオン!? 危ないわ、手を離して!!」
ぬっと顔を出したネオンは、そのまま扉に、両足をかけた。重力を感じさせないその動きは、並大抵の鍛え方では身に付かないものだった。小柄で華奢で、発育不良気味の少年が、まるで壁に貼り付いた蜘蛛のように、四肢全てを使って馬車に乗り込もうとしてくる。
馬車の扉は、人一人がくっついていられるほど丈夫ではない。蝶番がきしみ、ぐらつく。エリーゼは弟を馬車の中に引き入れたくて腕を伸ばそうとしたが、ネオンの顔を見て、恐怖で腕が固まってしまった。
瞳孔が開ききった真っ暗な双眸は、まるで獣のようだった。異様に大きな歯は全てギザギザの犬歯、扉にしがみつく小さな指先は、緩むことなく恐ろしい握力を維持している。
(な、なんなの!? こんなネオン、知らない!)
ネオンが片手を伸ばして、エリーゼの片手首を掴もうとしてきた。すぐにアールベリアが彼女を馬車奥まで引き込んで、代わりに、ずっと持っていたナイフを、思いっきり投げる――素振りをした。
顔面に向かって刃物を投げつけられると勘違いしたネオンが、せめてもの仕返しのつもりなのか扉を蝶番ごとバッキリへし折って、馬車から降りた。
「ネ、ネオン……」
「投げるフリです。投げてはいませんよ」
引きはがされた蝶番は、馬車内部の壁紙も少し持っていってしまった。エリーゼはあまりのことにショックを受けて、痙攣していた。
「うちで一番頑丈な馬車を持ってきてよかった」
アールベリアがほっとしながら、ぽっかり空いた四角い穴から身を乗り出して、後方を確認していた。
「追っ手は来ていませんね。伯爵が理性ある御仁で救われました」
「ぼっちゃーん、大丈夫でしたかい? すみませんねぇ、ジジイは手綱から手が離せないもんでね」
「うん、サウス爺もありがとう。おかげで、なんとか振り切れたよ」
気づけば馬車はとんでもない速度を上げて揺れに揺れており、馬車の両壁に手をついていなければ、体が固定できないほどだった。ちょうど今、彼女の屋敷の敷地外に出たあたり。アールベリアは向かいの席に座っているエリーゼが、やたら静かなことに違和感を覚えた。
「エリーゼさん? エリーゼさん!?」
ぐったりと背もたれに沈むエリーゼ。急いで馬車に連れ込まれた際に、すっかり乱れた髪の毛が、背もたれに広がる。
「き、気絶してる……」
アールベリアは彼女に一生恨まれるだろうことを覚悟しながら、彼女の隣に腰かけると、その体が倒れないように肩を抱き寄せた。彼女の首があらぬ方向に曲がらぬように、頭も自分の肩に乗せておいた。
「本当に、間に合ってよかった……」
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