第7話   まさかの婚約相手

 まだ両者間で婚約が結ばれた段階であるのに、相手はすぐにでもエリーゼとの同居を望んでいるという……。日頃からエリーゼを疎んでいる父が断るはずもなく。


 エリーゼの速すぎる輿入れの儀は、別館で行われた。参加者は有志のみ。少人数のメイドたちの中には、マーサもいた。皆、とても申し訳なさそうにうつむいているから、エリーゼが無理して笑っている羽目になってしまった。


「元気出して。永遠の別れってわけじゃないんだから」


「こんな形で、お嬢様をお見送りしたくありませんでした……お相手のお屋敷へ移られても、どうかお気を強く」


「もちろんよ。お相手の家のことは、念のために調べてあるけど、私はそこまで心配はしていないの。きっと私の知らない世界がたくさん広がっていて、楽しいはずだわ」


 本当は、一抹の不安がオデキのように主張していたけれど、すべては気のせい、考えすぎ、と努めて明るく振る舞った。



 化粧をされる前に、飲料用のカモミールティーを使って、顔の汚れを丁寧に落としていく。ひとときの良い香りに、エリーゼは癒された。


 まだ婚約の段階ではあれど、六十も歳が離れている親類の老人こそが、きっと自分の最初で最後の主人になるのだと、エリーゼは確信していた。こんな境遇の自分に、他の縁談が舞い込んでくる確率は、低いと感じていたから、否、もはや皆無と同等だとすら思っていた。


(お父様の考えた作戦通りなら、私はすぐに無一文の未亡人になって、この別館に逆戻りする。そんな作戦を思いつくことこそが、お相手の男性にとても失礼だわ)


 せめて旦那様となった高齢の男性を、最期までお世話して差し上げようと、エリーゼは思う。仮にも自分と御縁のある人を、父のように粗雑に扱うのだけは、絶対に嫌であった。


(いいえ、嘆いていることそのものが、お相手への失礼に値するわ! なんとしてもご高齢の旦那様には長生きしてもらうんだから! ぜっっったいに実家に戻るだなんて嫌!)


 父は母の愛情を、動物の赤ん坊に例えた。同じ人間だとすら思っていなかったなんて、そんな事実一生知りたくなかった。何もかも父の思惑通りに進んでいる今だって、本音を吐き出せるのならば目の前の鏡台をぶん殴って、延々奇声を上げてやりたい。


 綺麗なドレスも、これから施される化粧だって、ぜんっぜん嬉しくない!


「お嬢様、ネオン様がいらっしゃいました。どうされますか?」


「え? ネオンが?」


 彼がこの館を訪れるのは、初めてのことだった。館の周囲をうろついたり、たまに窓から手を振っている姿を見かけたことはあるけれど、館に入るのだけは父に止められているそうで、未来永劫それを守り続けているのだとエリーゼも思っていた。


 この館の主であるエリーゼの返事を待たずに、侍女を押しのけて部屋に入ってくるまでは。


「ネオン!? こーら! 女性が支度中の部屋に、ノックも許しもなく入って来ちゃだめでしょ!?」


 驚き交じりに鏡台の椅子から立ち上がったエリーゼの目の前まで、ネオンが歩いてきた。今年で十五歳になる彼は、少し成長が遅いのか、十一歳か十二歳だと言われても信じてしまうくらい、あどけなく愛くるしい見た目をしていた。だがエリーゼは彼を一人の紳士として扱う。子供扱いなどしない。


「ネオン、部屋の主である女性が嫌がっているわ。紳士なら今すぐお部屋から出て、廊下で待っていなさい。お話しするなら、扉越しでもできるわ」


 いつもより険しい顔と声で咎める。だけど、ネオンの表情はいつもと変わらない。キョトンとしていたり、ニヤリと笑ったり、彼の表情はその二種類しかないのかと、姉ながら心配になる。


「エリーゼ! あのね、あのね!」


「ネオン、言うことを聞いてちょうだい」


「なんで? エリーゼはとっくに追い出されててもおかしくない身の上なのに、まだこの家に居候させてもらってるんだよ? それでなんでボクに指図できると思ってるの?」


 愛くるしく利発的な、無邪気な子犬のような少年だと、初めて見る者は表するだろう。その実態が、これである。上が年の離れた姉ばかりで、唯一の同性の家族である父は多忙、それで退屈していたせいなのか、それとも父が同世代の子供たちと一切遊ばせなかったのが原因なのか、はたまた元々このような性格として生を受けたのか、エリーゼはネオンに同情したい反面、こちらが戸惑うような言動の多い弟の行く末を心配していた。


 あと一年でネオンは成人し、家督が継げる歳になる。しかし今なおこのようなマナーレベルでは、迎えた妻も逃げ出すだろう。


 まだ幼さの色濃い弟を残して、縁談先に目を移さればならないのが、エリーゼは大変歯痒かった。


「そんなに言うなら、もう少しだけ一緒に、この部屋にいましょうか。今日だけよ?」


「やったー!」


「なりませんよ、お嬢様。たとえ身内であれど、支度する姿を殿方にお見せするのは賛同できかねます」


「あら、それもそうね、それじゃあ、ごめんね、やっぱりあなたは廊下で待っていて。お話の続きは、扉を挟んでおこないましょう」


 エリーゼだけでなく、周りのメイドたちもちょっと厳しめに諭して、ようやくネオンが部屋の外に出た。思い通りにならなかったことが不満なようで、むくれ返っていた。


「お父様が、こんなこと言ってたんだよ」


「あら、何を言ってたの?」


「どうして、エリーゼだけ別館にいるの? お父様の、本当の子じゃないからだよね?」


「ん?」


「隠さなくていいよ、だって、お父様に何度も聞いたんだ。どうしてエリーゼだけ別館にいるのー、って。なんで一緒のお屋敷じゃないのー、って」


「……そう。お父様が、そんなことを」


「あ、もしかして知らなかったの? ごめんねー、ボク、お父様からしょっちゅう言われるんだ、無神経だって」


「ふふ、正直者でよろしい! あなたのチャームポイントでもあるわ」


「お嬢様、あまりネオン様を甘やかしては……その……」


 普段はネオンの言動に黙って従っている彼女たちだが、今回ばかりは、思わず口から言葉がついて出た。


 エリーゼは自分よりも、メイドたちが静かに怒っているのを察して、苦笑した。


「そうね、ネオンはもっとたくさん、いろんな人と会話するべきだわ。そうしたら、誰がどんなことを考えてるのか、ある程度はわかるから」


「ほんと?」


「ええ」


「本当にエリーゼは、お父様と血がつながってないの?」


「え? ああ、そっちの話ね。私は母の不貞を疑ってないわ。だから私は、あなたの本当のお姉さんよ」


 ……しばらく待っても、返事がなかった。飽きて帰ってしまったのだろうか。エリーゼは化粧を施すメイドに手を止めるよう伝えると、扉に振り向いた。


 細い隙間が開いており、ネオンが頭を出していた。


「ボク信じないもん」


「ええ?」


「エリーゼが赤の他人だったら、ボクのお嫁さんにしてあげるのに」


「あらら、そんなこと考えてたの?」


「うん」


 けっきょくネオンは部屋に入ってきて、エリーゼの横に並んだ。大きな鏡台に、二人で頭を寄せ合う。


「それにさぁ、ボクと同い年の子と婚約するんだったらさぁ、そんなよく知らない子よりも、よく知ってるボクを選んだ方が、エリーゼだって安心しない? 女性は不安になりやすいって、本に書いてあったよ」


「あら? 私を心配して来てくれたのね? ふふ、ありがとネオン」


 周りがなんと言おうと、弟は優しくて良い子なんだとエリーゼは信じている。ふと、彼の気になる言葉を思い出して、凍りついた。


「ねえネオン? さっき、あなたと同い年の男の子が婚約者だって言わなかった?」


「うん、言ったよ」


「あなたと同い年の子は、アールベリア君しか知らないの。まさかあの子?」


「え? エリーゼ、それも知らなかったの!? 誰と結婚するつもりだったの?」


「八十歳近い、縁戚のおじいさんだってお父様から聞いていたわ。いつからアールベリア君になったの? あの子もまだ十五歳よ? この国の男性は十六歳にならないと、所帯を持てないのよ」


「うーん、よくわかんないよね。だからさぁ、よくわかんないヤツの所なんか辞めて、ここにいてよ!」


 ネオンなりに、正当性を主張するために、何よりも大事なエリーゼのために、社会的マナーもおぼつかないまま、この屋敷に飛び込んできた。その不器用で危なっかしい純粋さに、エリーゼは苦笑しか贈れず、もどかしかった。


 突然ネオンが、ぬいぐるみを奪われまいとする勢いでエリーゼの頭部を抱きしめた。


「行かないでエリーゼ!」


 せっかくメイドが整えたエアリーな髪型がぐしゃぐしゃになっている。後ろで声もなく絶句している髪結の気配。エリーゼは興奮する弟の背中を、ぽんぽんとさすった。


「ありがとう、ネオン。もう大きいんだから、女の人を許可なく抱きしめちゃダメよ」


 あえて最後は突き放すような言葉を選んで、押しやった。ネオンが口をへの字に曲げて、エリーゼを凝視する。


「なんで言うこと聞いてくれないの? エリーゼのばか! 絶対に後悔させてやるんだからな!」


「ふふふ、はいはい」


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