第3話   初めての理解者

「ここよ」


 金色の細い柄のカギを取り出して、鍵穴に差してカチャリと一回し。取っ手を押し開けると、年代物の書物の埃っぽいにおいが、少年の鼻をかすめた。


 部屋に所狭しと設置された本棚は、天井に届くほど大きくて、鈍器にもなりそうな分厚い革の背表紙が、ぎっしりと並んでいた。


 少年が最寄りの本棚を凝視する。


「お姉ちゃんは歴史がスキなの? そういうご本ばっかりあるね」


「ええ、各地の歴史を知るのが大好きなの。最近だと、推理モノの小説も好きよ。いろんな歴史のネタが盛り込まれた、怪作とかね」


「かいさく?」


 そこを質問されるとは思っていなかったエリーゼ、どのように噛み砕いて説明すれば五歳児に理解してもらえるのやら、ぱっと思い浮かばず、笑顔でごまかした。


「私はね、古い情報や新しい情報をたくさん集めて、まとめたり管理するのが趣味なの」


「管理するの? それって、すっごくむずかしいやつだ!」


「ふふ、私にとってはたいした事じゃないのよ。シュトライガス一族には独特なしきたりがあってね、女が全ての情報を管理しなさいって、代々お母様から教わるの」


 エリーゼの母は側室だったけれど、正妻が娘たちに教えるのと同じ内容を、エリーゼにも教育してきた。エリーゼもこの家の淑女なのだから、例外なく教育されるべきだというのが、母の持論であり、強さでもあった。


 そんな母を見習い、エリーゼはどんなときでも堂々と、清々しく振舞うように心がけている。


「不思議よねー。なぜ女性だけにそんな役割があるのかしらね。この家に男の人しかいなくなったときは、どうするのかしらね」


 両手で口を覆って心底おかしそうに笑うエリーゼを、少年は不思議そうに見上げていた。


「よくわかんないけど、お姉ちゃんの大事な場所なんだね。ぼく、入っちゃったけど、いいの?」


「ええ、歓迎するわ! 一緒にお菓子でも食べちゃいましょ」


 エリーゼがいたずらっぽく眉毛を釣り上げ、スカートをボフンと叩きながらしゃがんで、少年と目線を合わせた。その滑稽な仕草に、少年がケラケラ笑いだす。


「たべるー!」


「よし、それじゃあ、少し待っててね」


 エリーゼはメイドたちにお茶の用意を頼むと、自らは扉横に置いてあった木製の踏み台を両手に持ち上げて、とある本棚の前に設置すると、駆け上がった。棚の一番高い列から、とても大きな大辞典を取り出す。


 しかしこれはエリーゼが丁寧に作り上げた、ただの紙箱。パカリと表紙を開くと、布袋に入った焼き菓子が何枚も包まれていた。


 踏み台のそばまで来ていた少年が、天使のように降りてくるエリーゼの手元に、釘付けになっている。


「お姉ちゃん、それって……」


「ここに隠してないと、お姉様たちにぜーんぶ食べられちゃうの! ぜーんぶよ!」


 ぽかーんと聞いていた少年。やがて時間差でケラケラ笑いだした。


「ぜーんぶ!?」


「そう、ぜーんぶよ! 私の食べる分なんてぜーんぜん残ってないんだから」


 だからこっそり厨房に入って、マーサから焼き菓子を包んでもらっていた。



 いくら掃除しても埃臭いこの場所で、エリーゼは一人でお茶の時間を過ごすことが多かった。大勢いる姉達と、唯一母が違う……エリーゼの母は、父が遅くに迎えた側室であり、正妻との間には、すでに大勢の娘たちが。今度こそ男児を……そう望まれて、正妻と顔がそっくりの村娘が一人、屋敷のメイド兼愛人として、お金で買われる形で囲われた。


 それがエリーゼの母だった。


 エリーゼには、弟が一人いる。正妻が命と引き換えにして、大難産の末に誕生した。以来、伯爵は待望の男児に付きっきりとなり、エリーゼと母は、別館へと移されてしまった。伯爵が愛したのは正妻ただ一人だけ。母のことは正妻の予備としか、思っていなかったのだとエリーゼは悟っている。


(今日のように、何かの催し物があるたびに本館から招集がかかるけれど、ここに私の居場所は用意されてないのよね……だから勝手に作るしかないわ。この部屋のようにね)


 以前までは母と来ていたが、今年からエリーゼは独りだけ。伯爵の誕生日パーティが始まる数日前から、本館のこの部屋と私室(別館に移動させられる前に、母が使っていた部屋をエリーゼが勝手に私室と言い張っている)を行ったり来たりして過ごしている。姉たちとは会えば挨拶するが、反応が来たことは一度もなかった。


 今度はアールべリア少年が、同じように孤立しかけている。エリーゼは自分のような思いを、彼にさせたくなかった。


 仕方がないと諦めるしか楽になれない気持ちなんて、彼には抱いてほしくないと感じていた。


 書庫に勝手に持ち込んでいたお気に入りのティーテーブルに、二人分のティーセットが優しい香りを立てている。ネズミのように焼き菓子をかじる少年が、ときおり口にする「お姉ちゃんのママがいる」「部屋のすみっこで、お姉ちゃんのこと見てニッコリしてる」などの意味深な発言に、冷たい汗が流れるのを感じたが、平常を装い、穏やかな返事を努めた。


(今この場で彼を信じてあげられるのは、私しかいないんだわ)


 手にしたカップを、ソーサーに置く。


「ねえアールベリア君、自分にすごく変わった趣味や特技があるとね、ああ自分は一人ぼっちだなぁって思う日が、いつか来てしまうわ。でも、自分のしている事には意味があって、いつかきっと、とっても役に立つ時が来るの」


「来るの?」


「ええ、絶対に! 私や貴方にしかできない事は、きっともっとたくさんあって、そしてそれはなかなか人には理解されないことかもしれない。忘れないでね、貴方に必要なのは、ありのままの貴方を理解してくれる味方を、たっくさん見つけておくこと! これは絶対よ? 無理せず仲良くできる人を、いっぱい見つけてちょうだいね」


 少年は口をぽかんと開けて、ほっぺにクッキーの食べかすをつけたまま、エリーゼの話を聞いていた。彼がどこまで理解できたのか、エリーゼには把握できない。それでもこの先、彼が生きていくためには大事なことだと思い、伝えたのだ。


「えっと……どういうこと?」


 エリーゼはガクリと肩が下がったが、根気強く笑みを浮かべた。


「例えば、そうね、貴方の話を聞いても、絶対に怒ったりしない人ね」


「お姉ちゃんは、おこらない?」


「え? まあ、あの……そうね。貴方がわかりやすく説明してくれるなら、最後までお話を聞いてあげるわ」


 根拠の不明なオカルトを信じたり、霊視や予言などといったたぐいには、どうにも苦手意識があった。歴史上そのような記事を目にする事はあれど、今目の前にして信じるかどうかと尋ねられたら、どうしていいか分からなくなる。


「お姉ちゃんは、ぼくのりかいしゃ、してくれる?」


「もちろんよ」


「それじゃ、それじゃあね! ぼくのお話きいて! あのねパパがね、パパ以外に教えちゃダメって、イジワル言うんだよ。でもお姉ちゃんになら、いい?」


「え? え、ええっと……でも、お父様の言いつけも大事だから、そうね、この砂時計の砂が全部落ちきるまでなら、お話聞いてあげるわ」


 少年は嬉しくて嬉しくて、真っ白なほっぺたを桃のように上気させて、一所懸命に話した。エリーゼにとっては、支離滅裂で主語もよくわからない上に、子供特有のマイペースな話の構成に、ついうっかり小首を傾げそうになるのを必死で耐えた。


 そして砂時計が落ちきるまで、耐えきったのであった。


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