3
賃貸の集合住宅のとある一室に、味噌汁のよい匂いが漂っていた。
太陽は既に南中を過ぎ、やや傾き始まったような時刻。南向きの、ベランダへ続く掃き出し窓から、レースのカーテン越し、室内へ快い温もりが注いでいた。窓から見下ろす街並みは、風もなく、鳥も羽を休め、遠い山影まで静閑に続いていた。物音のしない、長閑な昼下がりだった。
カウンターキッチンに寄せた、四人掛けのダイニングテーブルの一角に、男がひとり、座っていた。テーブルには、男の前に、魚肉ソーセージが一本、そして味噌汁が置かれていた。汁椀から湧き立つ湯気が、窓からの陽光を反射して、縦に横にとゆらり渦を巻きながら、上って、男の目の高さで消える。男はそれを、眠そうな目で見つめながら、魚肉ソーセージを手に取って、包みを剥いで、無感動に口へ運んだ。咀嚼の音さえ忍ばせて、ひと口は小さく、黙々と食べていた。時間も微睡む、穏やかな静けさにあって、強いて音を立てまいとする緊張が、男の肩や肘のあたりに微かに纏わっていた。
そんな静寂にあったから、廊下へ続く開き戸の奥で、こそりと立った人の気配に、男はすぐに気づいた。廊下の右手、寝室の戸がそっと開かれる微かな音が、大きく響くようだった。
「いい匂いがするな」
やがて廊下から現れた少女は、開口一番、そんなことを言った。艶のある白糸のような髪は寝癖がつき、波打って、顔が半分隠れている。一方で寝巻の灰色のジャージは、裾を仕舞って、きっちりと着こまれ、乱れた様子ひとつない。そのちぐはぐさに、男は口の端だけで笑む。
「おはよう。もう昼だけどな」
「うん、おはよう。よく寝たよ」
悪びれもせず少女は返し、また廊下へと引き返していった。洗面台へと向かったのだろう。
男はテーブルに視線を戻す。椀をとって、味噌汁を口にする。飲み下して、ひと息を吐いたとき、男の頬に、肩に、柔らかさが戻っていた。
「仕事はどうしたんだ?」
テーブルについた少女は、白髪を後ろ頭に束ねながらそう尋ねた。カウンター越しに、キッチンから男の声が返ってくる。
「今日は休みだよ」
「そうか。じゃあ、買い物でも行くか」
戻ってきた男は、少女の前に、米飯と味噌汁を並べた。主菜の代わりか、ついでとばかりに魚肉ソーセージを転がす。妙な取り合わせのうえ、片手落ちの、中途半端な食事だったが、少女は気にもせず手を合わせた。「いただきます」と律儀に頭を下げて、箸をとる。汁椀を傾ける。
男は向かいの席へ、窓に向かって斜に腰掛け、頬杖をつく。顔は窓を向いているようで、視線は少女を捉えている。少女は、茶碗や箸の持ち方、椅子に浅く腰掛ける姿勢に、よく躾けられているのが伺えた。育ちや品がいいというよりは、やや時代がかって見えるのは、体格に似合わずよく食べるからだろうか。所作は丁寧だが、遠慮や緊張はない。それは男が出会ったときから変わらない。
茄子、美味しいな。そう呟いて微笑む少女から、室内へ目を移しながら、男は言った。
「買い物って、これ以上、何を買うよ」
巡らせた視線の先には、部屋にあって当然の家具――カーペット、ソファ、座卓、本棚などなど――が置いてあるばかりだったが、そのどれ一つとっても、淡い色調、角の少ない意匠で統一され、到底この男の趣味とは思われない。それもそのはずで、それらはすべて、少女が買い揃えたものだったのである。
「いやいや。カーテンすらかかっていなかったところから、ようやく生活感を取り戻したところだろう。そうだな。テレビ……はいらんか。観葉植物がほしいな。ちょっとしたやつでいいから」
「もう好きにしてくれ」
男が肩をすくめ、少女は米飯を口に入れながら低く笑う。
少女の初めてこの部屋へ足を踏み入れた、つい二週ほど前、ここはまるで空き部屋のような有様だった。衣類棚、電灯、ベッド、そのほか必要最低限の家具家電に至るまで、何一つ置かれていなかった。言葉を失う少女へ、男はただ一言、「思い出すからな」と口にして、それ以上を語ろうとはせず、また少女も、強いて問い質すことはしなかった。ただひとつ残された、使い古された四人掛けのダイニングテーブルが、男の内情を物語るようだった。
なにも尋ねなかった少女だが、しかし次の日から、男に断りもせず、家具類を買い始めた。カーテンをかけ、食器を揃え、洗濯機を設置した。唖然とする男をよそに、我が物顔で、あれこれと整えていった。資金を男に求めることもせず、夜毎の収入を、ほとんどそこへ費やしている節まであって、男の止める間もなく、部屋は少女によって彩られていった。もはやこの部屋の主は少女へ移っていた。
少女が食事を終え、手を合わせると、男が食器を片付けにかかった。慌てて立ち上がる少女を制して、男は廊下へむけて顎をしゃくる。
「着替えてこい。出かけるんだろ」
「……ありがとう。味噌汁、美味しかった」
「おう」
部屋の景色が変わっていくことを、しかし男自身も、受け容れているらしかった。
繁華街の傍らに、小さな噴水があって、その周囲が広場になって、そこを訪れた人々の憩いの場を作っている。
噴水の縁は外側に一段低くなって、等間隔の仕切りが設けられて、座席を象っている。彼らは今しもそこに腰を下ろし、ひと息吐いたところだった。男は身をひねり、今は静かに水面を揺らす泉を見つめている。水底には中央から同心円にノズルが立っている。定期的に水が吹き上がるのだろう。見れば噴水の縁と座面とを兼ねる大理石――おそらくは模造品だろうが――に、水の散った跡が白く残っていた。風向きによっては飛沫を被ることになりかねない。
一方の少女は、途中で買ったレモネードのカップを両手で持って、ストローに吸い付いている。目深に被ったキャップの下から、周囲を行き交う人々を見送っている。
彼らの足元に置かれた幾つかの紙袋は、どれも衣類のブランドロゴが印字されていた。ほとんどは少女のものだったが、彼女は男にも数着あてがって、強引に買わせていた。彼らの頭に乗っている、揃いのキャップも、少女が気に入って先刻買い求めたものである。
男が身を正面へ戻し、大きく伸びをしてから言う。
「なあ、ちょっとしたやつって、言ってなかったか」
「ふふ、ついな」
当初の目的であった観葉植物は、既に購入を済ませていたが、彼らの手元にはなかった。少女の選んだのは、彼女自身の身の丈を越えようかというパキラで、到底持ち運びできるはずもなく、配送を依頼していた。
「どこに置くんだ、あれ……」
「ほら、部屋の角、窓のところ、あそこになんとか入らないかな」
「どうだかなあ」
尋ねておきながら、男は興味もなさそうに返事をした。少女はキャップの陰で、目だけを男へ向ける。すぐに己の膝に視線を落とした、その瞬間に彼女の面に浮いていたのは、微かな焦燥で、しかしぱっと顔を上げたときには、皮肉げな笑みに変わっている。
「お前も世話をするんだからな」
「あァ? まじかよ。植物なんてわからんぞ」
「あはは、わからん者同士、なんとかやろうじゃないか」
少女はけらけらと肩を揺らし、男は苦笑いで溜息を吐く。それから男は、背もたれに身を預けて空を仰いだ。日は幾分傾いてはいても、まだ空は青く、小さな雲が、商業ビルの屋上から飛び立って、悠々と広場を越えていく。
男は静かに深呼吸をした。休日の繁華街の雑踏は、音も形も匂いも、何もかもが個を失って入り混じり、どろどろと流動的に、不分明に、まるで暗い海のように、男の周りを過ぎていく。いずれ我が身も等しく溶けて消えてしまいそうな喧騒にあって、男はふと、それらと己とが明確に隔たれていることに気づく。自分が他人と異なっている、という当たり前の実感を、彼は改めて自覚する。それはいつぶりのことだったろう。それと同時に、これまで、いつの間に、男は、己などないような心持ちになっていたことも、ようやく自覚した。
その途端、男の心臓の底あたりに、漠然とした不安が凝った。男は、顔をしかめた。そんな不安は、断ち捨ててしまいたいもののはずだった。己など、ない方がよいもののはずだった。男は知らず、口を開いている。
「なあ、あんたは、いつまでうちにゐるんだ?」
「ん? なんだ、そろそろ追い出したくなったか?」
「いや……」
「それとも、寂しくなったか?」
「そうじゃ、ない」
「なんだ、威勢のよい否定だなあ」
あくまで楽しげな少女を、男は口の端を歪めて見つめる。怒るなよ、と少女は片手を振った。
「言っただろう。行くあてもない、待ち人もいない、おまけに表ざたにできない体質だからな。普通に生きるのが不便な代わり、自由は効く。いつまでゐてもいいし、今すぐにゐなくなっても構わない」
そこで言葉を区切り、少女は男の方へ身を乗り出した。キャップの庇を心持ち、指先で上げて、その陰から男を見上げ、片方の口角を吊り上げてはにかむ。
「個人的には、まだゐてもいいと思っている」
にししし、とわざとらしく声を立てて笑う。顔をしかめた男の反論を封じるよう、さらに、片手にしていたレモネードのストローを、男の口へ突き込む。咄嗟にカップを受け取ってしまった男を置いて、ぱっと立ち上がると、まるで舞うようにくるり身を翻した。白銀の髪は陽光を吸って、仄赤く輝いた。
「ほら、帰ろう。今は暖かいが、じき日が傾く。ぼちぼち、冷えてくる頃合いだろう」
男の背後から微かな音があって、次の瞬間、水面を白い柱が立ち上がった。周囲から歓声が上がる。水中に光源があるのだろう、噴水は青、黄、赤などに淡く色づいて、過ぎゆく者の目を攫う。
その中、男は後ろには目もくれず、目前に立つ少女を、睨むような、困ったような、釈然としないといった顔で見つめていた。紙袋を幾つか手に取った少女へ、文句を言う代わり、男はずぞぞと音を立ててレモネードを飲み干した。
美味しいだろう、と己の手柄であるように指をさす、少女を半ば無視して、男は広場の端までカップを捨てに立った。噴水を見上げながらも、しかめ面で戻ってくると、残りの荷物をとって、無言のまま踵を返した。少女の言う通り、アーケードの吹き抜ける風は、男の肌にも冷たく変わっていた。太陽はいつの間に、ビルの向こうに隠れて彼らの足元に影を投げかけていた。空はまだ明るい。しかし街並みは夕影に沈もうとしている。それが余計に、物悲しい。
少女はやれやれと困った笑みを浮かべ、今しも人波に紛れて消えてしまいそうな男を、軽い足取りで追いかけた。隣に並ぶと、男はちらりと少女を見下ろして、また正面を見て、しばらくは口を噤んでいて。やがて歩きながら言った。
「夕食の買い出しをしなくちゃな」
少女はきょとん、と目を丸くする。それから、ふっと頬を緩ませた。
「うん」
彼らは両手に荷物をいっぱいにして、曖昧な距離感で、並び、歩く。街並みの間を抜けた夕日のひとすじが、彼らの背中を差して、束の間、橙に照らしだした。流れ流れる雑踏に掉さして、けれども彼らは、たしかに、己の意志でもって、進んでいった。
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