その日、少女が出先で一夜を明かすことなく、夜半に男の家へ戻ったのは、単なる偶然だった。ベッドに入ったはいいが、気乗りせず、相手の気を済ませるなり挨拶もそこそこにホテルを出てきてしまったのである。余韻もへったくれもあったものではない。拍子抜けする相手の顔を思い出すと、少し笑えた。少女は口の端をこっそりと吊り上げる。

 玄関扉を開けると、既に室内の照明は落とされていた。じき日を跨ごうかという時分だ、男の疾うに寝入っていても何ら不思議はない。しかし少女は微かに目を眇めた。後ろ手に扉を閉め、慎重にサムターンを回す。耳を澄ませる。左手の扉、寝室から物音は聞こえない。起こしてしまわずに済んだのだろうか。

 男の眠りは、どうやら大変に浅いらしい、というのが、このひと月の間に少女の気づいたことである。夜はいつまでも寝付けず、朝はまるで寝ることを苦痛に思っていたかのように溜息と共に目覚める。男の寝付いたころに少女が帰り、床に就くと、どれほど音を立てぬようにと気を遣っても、男は必ず目を覚ましていて、横になった背中越しに「おかえり」と口にするのだ。少女に気取られたくないのか、隠してはいるが、医者に通い、どうやら薬を処方されてもいるようである。しかし少女の目には、男の眠りが改善されているようには見えなかった。

 だから、既に彼が寝入っているとも、今の物音で目を覚まさないとも思えなかった。家を空けているのか、とすら少女は考えたが、暗がりに慣れた彼女の目に、三和土に無造作に転がる男の靴が映った。片方など横倒しになっている。いよいよ少女は訝しげに首を傾げた。

 万が一と物音は忍ばせつつも、ほとんど遠慮なく少女は寝室の扉を開ける。東向きの窓に掛かるカーテンの隙間から、細く街明かりが入っている。その下、少女の気に入って買った古めかしい意匠のダブルベッドは、案の定、冷たく萎れている。

 ただいま。次いでリビングへの扉を開けながら、少女は呟いた。掃き出し窓には、あえて非遮光の薄いカーテンがかかっている。そのカーテン越しに、白むほどの光が部屋へ投げかけられていた。少女は暗がりに慣れた目を細める。月明りだ。今夜は、満月だった。あの日、海で見たのと同じ冷たい光。

 部屋へ身を滑り込ませた途端、彼女はうっと顔をしかめる。アルコールの濃い臭いに、煙草の臭いまで混じっている。他ではともかく、ここではついぞ嗅いだことのなかった臭いだ。足早に部屋の中ほどまで進み、ダイニングテーブルに目を走らせる。やはり、卓上にはロング缶が五六本並んでいたが、男の姿はなかった。なかったが、違和感を覚えて少女はテーブルへ寄った。卓上に散らかっていたのは、空き缶ばかりではなかった。枯れ葉のように重なり合い、山を成しているのは、錠剤のシートだった。どれも空になっているのは確かめるまでもなかった。

 それとわかるや否や、少女は足をベランダへ向けた。ほんとうは、リビングへ入ってすぐに気がついていた。半端に開いた窓が、カーテンを揺らしていることに。煙草の臭いが、その隙間から漂ってきていることに。そしてなにより、眩いほどの月明りが、窓越しに黒い影の塊をカーテンへ映し出していることに。

 ベランダへ出る。果たして男はそこにいて、窓へ背を預けて崩れるように座っていた。頭は傾き、到底意識があるとは思われなかったが、煙草はまだ唇に引っかかって紫煙を上げていた。

 「死ぬな。起きろ」

 少女の近寄って肩を揺すった拍子、咥え煙草が滑り落ち、少女の腕に当たってから男の股の間に転がった。音も立てずに火が消える。男の手元の缶が倒れ、こぼれ出した酒がそこで水たまりを作っていた。股にまで染み入って、まるで失禁したみたいになっている。或いは、ほんとうに漏らしているのかも知れなかった。

 揺すった程度で、男の意識が戻るわけもない。少女は躊躇なく、片手の薬指を男の口へ突き入れた。酒諸共、胃袋に大量に溜まっているはずの錠剤を吐きださせようというのだ。消化されてからでは遅い。迅速であるに越したことはなかった。

 ところが、少女の手は小さく、男の喉にまですぐには届かなかった。そしてその僅かの間に想定外のことが起こった。男が急に、顎に力を込めたのである。それは単なる防衛反応だったろう。しかし意識のない男は、状況の判断力も、遠慮も欠いていた。

 ガチン。男の歯が打ち鳴らされる。無論、少女の指を口の中に残したままに。

 咄嗟に少女は手を引いた。しかしそのときにはもう、指の並びに不自然な空白ができている。色の抜けた月明りの下にもわかるほど、その空白からは血が溢れ、男の顔にだらだらと滴り落ちた。

 「……」

 少女は声を上げなかった。それどころか、傷口を一瞥して、眉根を寄せただけだった。男は直後に緊張を緩め、口から少女の指を吐いた。さらには、血の臭気がきっかけになったのだろう、顔をしかめたかと思うと全身を縮め、遅れて嘔吐した。この寸前で少女は己の指を拾い上げ、吐物の掛からぬよう、一歩退いている。

 幾度か痙攣して、自分の身体を汚しながら、男は胃をひっくり返すような勢いで吐き続ける。ほとんどは液体だった。そこに、無数の白い粒が混じり、ベランダの床面に広がっていく。錠剤はまだしっかり形を残している。朦朧としているのはアルコールの影響か。少女の肩から力が抜ける。男は吐物の海へ潜ろうとするように、力なく倒れた。湿度の高い咳をして、まだ液体を吐いている。このままでは己の吐物で溺れかねない。

 酒と胃液、さらに血の臭いまで混じる悪臭で、少女は鼻頭に皺を寄せた。ぶくぶくと泡を吐く男を横目に、彼女は片手を月明りにかざし、未だ止まらない血の、手首から肘へ滔々と流れ続けるのを見た。もう一方の手には、細い指がつままれている。食い千切られて断面は荒れていたが、指側で白く露出する芯は、丸みを帯びた滑らかな関節面を晒していた。まるで物珍しげに、少女はつまんだ指をくるくると回して、ひとしきり眺めた。流血に対する緊張感は微塵にもなかった。

 意識が戻ったわけではなかろうに、男が微かに呻く。少女は肩を竦めると、指と手、互いの断面を荒っぽく押し付けた。幼子が粘土を繋げようとするような、あまりに無造作な手つきだった。

 ところがどうだろう。少女がそっと手を放すと、彼女の薬指は、もとの位置に確かに突き立っていた。傷が消えたわけではない。噛み痕は指の付け根をぐるりと取り巻き、そこから溢れる血は止まる気配がない。しかし少女が手を握りこむと、その意に沿って指が曲がるではないか。手を結び、開き、と何度か繰り返す。他の指と遜色なく、少女の薬指は機能を取り戻していた。止まらぬと思われた出血さえ、徐々にその勢いを弱めていた。

 少女は再び男を見る。吐瀉に沈んでいる男の、まだ汚れていなかった片腕を両手でつかみ上げ引っ張った。如何せん体格差が大きかったが、少女はめいっぱい体を傾けて、ずるずると男の身体を引きずり、室内へと運び込んだ。その間、少女はずっと、「死ぬな、死なないでくれ」と呟いていた。感情の起伏の少ない、淡々とした声だった。

 ナメクジの這い跡のように、ベランダの床に吐物が長い尾を引いて、月明りに輝いていた。


 男の目覚めたのは、翌の日暮れのことだった。そのとき男はベッドの脇で、硬い床に寝かされていた。頭痛と吐き気、喉の焼ける感覚に苛まれながら、青い顔をゆっくりと持ち上げ、身を起こす。しばらくは何も考えられず、全身の倦怠感と不快感とを持て余し、ぢっと床を見つめていた。どれほどそうしていたか、記憶の混乱が落ち着くと、ようやく己の、文字通りの決死の行動が本懐を遂げられずに終わったことを悟った。悔しさと、安堵と、二つながらも湧き出てくる気持ちを、深いため息で押し流した。

 力の入らない足腰をむりやり立てて、壁に身を預けながら立ち上がる。寝室を出ようとした段になって、着替えた覚えもないのに身に着けている服が寝巻に変わっていることにも思い至る。過去の泥酔の経験上、男自身が無意識にやったものとは考えられなかった。重たい脚に、自己嫌悪を引きずって、男は寝室を出る。

 這う這うの体でリビングへ辿り着くと、ダイニングテーブルでは、少女が、珍しくもコーヒーで一服していて、男が何を言うよりも先に、口が臭いから歯磨きをしてこいと男をすげなく追い返した。身支度を整え、男はようやくテーブルにつく。部屋に微かに、塩素の臭いが漂っていたのは、少女が男の後始末をしたのだろう。最早、謝罪も礼も言えず、男は俯いて身を縮めるしかなかった。

 「しかし、誤算だった。いや甘く見ていた。てっきり、お前は諦めたと思っていた」

 少女は普段と変わらぬ調子で言った。視線は窓の外、仄かに日の名残を映す空へと向けられている。深く腰掛けた椅子の背もたれに、ゆるゆると身を預け、テーブルに置かれたカップに伸ばす右手からも力が抜けている。

 「……諦めた?」

 「ああ。海で、ほんとうは死のうとしていたのだろう」

 半ば呆れたような声音で少女は言った。男は動揺を露わにし、僅かの間、茫然と少女の顔を見た。今や部屋に明かりは入らず、彼女の顔は薄闇に溶け込んでいる。陰に凹凸を作るよう、微かに窺える表情は、喜怒哀楽の如何様にも受け取れるようで、いくら目を凝らしても分明にはならない。しばらく見つめていて、男は我に返ると口を噤み、目を逸らした。

 ろくな荷物もなく、帰りの電車賃さえ持たずに遠方の海まで遥々と訪れた。自宅では家財がほぼ全て処分されていた。これまで少女がその理由を尋ねなかったのは、疑問を持たなかったのではなく、訊くまでもないことだったからだ。

「隠しているつもりだったのか……。家を賑やかにしたのも、未練になればと思ったからなのだが、もしかして、気づいていなかったのか?」

 「……」

 「そうか。そうだったか。空回ったなあ」

 あっはっは、と乾いた笑いをこぼして、少女は乱れのない白髪を手荒にかき混ぜる。

 男は目を伏せたまま考える。もしこの少女がいなかったならば、彼はもっと早くに二度目の自殺を図っていただろう。そうでなくとも、昨晩のことで見事落命していただろう。彼自身には、言われるまで全くその自覚はなかったが、少女の行いには些かならぬ意味があった。しかし自覚してなお、男は簡単には認められなかった。海へ赴いたあの日から、男の意志には陰りも曇りもなく、機会さえあればいつであろうとそれは実行できるつもりだった。それなのに気が付くと己が生をずるずると引きずって……いや少女に引きずられて、今日まで生きていた。死んでしまおうというその思いだけが、男を成り立たせているはずだったのに、そうではなかったのだ。

 「なあ」

 少女の声ではっと顔を上げる。真っ白の髪が、辺りを漂うあえかな光を吸って、彼女を暗がりにぼんやりと浮かび上がらせていた。闇に慣れた男の目が、少女の遠慮がちな視線を捉える。彼女は両手に持ったマグカップで苦笑いを半ば隠しながら、しばらく言い淀み、それから口にする。

 「何があったんだ。きっかけは、あったのだろう?」

 「ん、ああ……」男は目を伏せ「離婚調停が終わったんだよ」

 それだけを言った。まるで些細な出来事のような物言いだったが、それがもとで男は昨晩の行為に至っているのである。内心を隠せていないのは、彼自身も承知のことだったろう。

 少女は瞳を微かに揺らし、しかし男から視線を逸らさず、小さく頷いた。

 「そうか。お疲れ」

 「ああ」

 男もまた、頷いて返した。

 いよいよ日は沈み、夜は色を増していく。月はまだなく、しかし星は街明かりに塗りつぶされて、僅かに一つ二つが瞬くばかり。部屋を満たす夜闇も時を追って密度を増していくが、ふたりは椅子を離れずに、ただ言葉もなく、向かい合っていた。とはいえ、既に互いの姿はほとんど夜に紛れていたし、男は頬杖をついて室内を、少女は椅子に凭れたまま窓の外を向いて、お互いを見てはいなかった。ただそこに、相手の存在を感じてはいるのだった。

 街の喧騒すら遠い、静かな部屋で、換気のためと開けていた窓から、夜風が柔らかく彼らの足元を抜けていった。日中は麗らかな陽気だったのだろうか、風はまだ、優しい熱を帯びていた。少女は左の薬指の付け根を、右の指で触れ、そこにできたかさぶたを確かめる。もう傷は塞がっていた。男には、この傷のことを話していない。

 少女は穏やかな吐息に混ぜて、ぽつりと呟いた。

 「生きていて、よかったよ」

 「……」

 「色々な人間と、まあ、大なり小なり関係を持ってきたが、お前みたいなのは初めてだったから」

 「ははは。ガキがなに言っているんだか。世の中、こんなのはザラだよ」

 男は少女を見ないまま、皮肉めいた声音で答える。彼はまだ、少女を、見た目通りの年端も行かぬ娘と思っているようだった。少女はあえてそれを否定せず、代わりに苦笑いを浮かべた。まあいずれわかることだろう、と内心だけで独り言つ。

 「ザラだろうとなんだろうと、初めてだったんだ」

 「そうかい」

 「だから、生きていて、よかった」

 「……そうかい」

 そのとき、窓のアルミサッシが強い光を放った。それはみるみる明るさを増し、室内を白く照らす。少女は目を細め、背を向けていた男は驚き振り返った。

 ふたりはすぐに、その正体に気が付いた。街並みから月が顔を出したのだ。直接は窺えない月の、煌々と放つ光が、窓枠に反射して彼らに注いでいるのである。彼らは同時にほっと息を吐き、そのことにも同時に気づいて互いの顔を見た。

 男を見た少女がぎょっと目を見開く。いつの間に、男は涙を流していたのである。少女の表情で、男も今更のように、己の涙に気が付いたのか、慌てて顔を逸らし、手の甲で荒っぽく目元を拭っている。

 その、思いの外に幼い、見た目にそぐわぬ男の仕草に、声こそ上げなかったが、少女は、ふふ、と口元をほころばせた。そこにからかうような含みはなく、それこそ幼子を見守るような、慈しみとも呼べる暖かさを帯びていた。男は少女を横目に見て、これを拒絶しては自分がさらに子どもっぽく見えるとわかって、何も言い返すことができない。しかし、唇を噛んで、少女から目を背ける様は、やはり大人の態度とは程遠く、結局は少女の笑みをさらに深めることになるのだった。

 「よかったよ」

 「……もうよせ」

 月はさらに昇る。

 部屋に差し込む光は、むしろ淡くなる。

 柔らかな月明りの夜に、少女の笑みと、男の涙とが、静かに溶けて、沈んで、消えた。

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月明りに沈む 茶々瀬 橙 @Toh_Sasase

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