一晩の宿にも困って、湯に温まった体の熱を逃がさぬように、我が身を抱いて、男は海辺を走る高架の下、橋脚に凭れて夜を明かした。財布に残ったなけなしの現金は、二回分のコインランドリーと、そのあとに買った二人分のホットコーヒーとに潰えていた。衣服越し、身を寄せるコンクリートに体温を吸われて、男は浅い眠りと覚醒を繰り返していた。徐に明るさを増す景色を、コマ送りの映像のように、薄く開けた瞼から見送って、どれほどか、近づいてくる足音が、ようやく男の意識にまで陽を届かせた。

 男ははっと身を起こす。真っ先に思い浮かんだのは、近隣住民に通報を受けた警察官の姿であった。傍目にも明らかな不審人物である。このうえ身分証の一枚も持ち合わせていない男は、潔白を示す手段を全く欠いていた。

 しかし、男の振り向いた先、のたりのたりと砂を蹴って歩み寄ってくるのは、あの白い少女であった。男はふっと肩の力を抜く。今更のように寒さを思い出し、首を縮めて身震いする。妙な姿勢で眠っていたおかげで、体の節々が痛む。首や肩を回していると、少女が男の前に立った。

 昨晩、コーヒーを飲んだコンビニの前で、彼らは別れていた。それきりになることも男は考えていたし、それでいいとも思っていた。しかし彼女はこうして戻ってきた。無一文は彼女にしても同じだろうに、一晩、どこで過ごしていたのだろうか。

 「おはよう」

 少女はことりと首を傾けた。

 「ああ、おはよう」

 「ひどい顔をしているぞ。いいものをあげよう」

 言いながら、片手に提げていたビニール袋を男の膝の上に置いた。コンビニのロゴの入ったその中には、サンドイッチと缶コーヒーが二つずつ入っている。男は顔を上げ、訝しげな目を少女へ向けた。咄嗟にポケットを探るが、もちろん財布はそこにあったし、残った現金では缶コーヒーの一本さえ買えないだろう。

 「……これ、どうしたんだ」

 「あん? 盗人に手提げを呉れると思うのか?」

  心外だと言いたげな顔をして、少女は男の隣に腰を下ろす。袋へ手を伸ばして、サンドイッチをひとつ掴み上げる。そのときに男の鼻をかすめた彼女の髪からは、ひどく甘ったるい香りがした。洗髪料のものだろうか、しかし銭湯には似つかわしくない、煽情的な、濃い匂いだった。男はますます顔をしかめた。

 鼻の奥に蟠るような香りはしかし、次の瞬間に吹き寄せた海風が晴らしてしまう。春の入りの朝風は、まだ磯の臭いは薄く、冷たい。男の目の奥に残っていた眠気までも連れ去って、背後へと流れていった。

 男の隣で、少女は目を細め、風上へ鼻先を向けて、僅かに上げた顎を風に晒していた。舞い上がり、毛先を揺らす髪が、今しも岬の陰から姿を現した陽を浴びて、ちらちらと光を散らす。露わになった白く細い首を、男は無意識のうちに視線で追って、襟元で浮いた鎖骨の端が、ほんのりと赤く色づいていることに気がついた。咄嗟に目を逸らす。逡巡を挟み、もう一度少女を見遣る。

 包みを解いて、少女はさぞかし美味そうにサンドイッチを頬張っていた。無邪気に頬を膨らませ、海へ向けた横顔には笑みまで浮かべている。繊細で精巧な造形の顔貌は、表情のないときには冷たく大人びたものを感じさせるが、頬の丸みや、瞳の大きな目、何よりその華奢な体躯が、彼女の幼さを主張する。精々が十代の半ばといったところだろう。そんな娘が夜中を独り、どう過ごしていたものか、どう金を得たものか。

 男があまり熱心に見つめていたせいだろう、少女は彼を振り向いた。碧色に赤を斑に垂らしたような、独特の色味をした瞳が男を真っすぐと見据えた。

 「あ?」

 「ん、いや。いただくよ」

 男は首を振って、視線を手元へ落とした。たまごサンドだけで三種類、ひと纏まりになった品だった。少女が得意げに言う。

 「たまごのサンドイッチ、美味しいよな」

 「ああ、そうだな」

 そのときの笑みはやはり子どものそれで、男は動揺を隠すよう、サンドイッチにかぶりつく。

 刻一刻と陽が上り、その度に海が輝きを増す。翻って、高架下には濃く影が差す。白砂にくっきりと印されて、じりじりと遠退く、真っ直ぐな影の縁を、潮騒など目もくれず、少女は興味深そうに見下ろしている。男は遠く、行き来する波際の、勢い任せに形を崩しては、しおらしく静かに戻っていくを見つめている。食事の間、彼らに言葉はなく、互いへの関心もなかった。ただ隣にあるというだけだった。

 食事を終えた男の片手が自分の胸元へ伸び、しかし空を切った。自身を見下ろし、僅かに遅れて「ああ」と溜息を吐いた。それらを、奇異なものでも見るように横目に追っていた少女が、少し遅れて小さく頷く。口の端で笑む。

 「昨日ので濡らしたのか? 買ってこようか」

 「……あんたじゃ買えないだろ。それに、やめたんだ。いらん」

 「へえ?」

 面白そうに少女は首を傾げるが、男は缶コーヒーに口をつけ、無視をした。少女も深追いをせず、自分のサンドイッチをさっさと片づけにかかる。

 缶を呷って、最後のひと口を飲み下した男は、それで、と口火を切った。

 「家出か。親御さん、心配しているだろ。まして、昨日みたいなこと……」

 一言ずつ、声調が声量が下がっていく。月夜の昏い波に飲み込まれていく、白銀の後ろ姿。昨晩は美しく思えたそれは、今思い返すと、寒気のするほど恐ろしい。男の顔を逸らし、控えめな視線を向けた先、しかし少女は飄々として、平然と指先を舐めていた。男と目が合うと、片眉を上げ、指を口から放す。思案顔で視線を巡らせる。やがて、びし、と男を指さした。

 「不公平だろ」

 「なにが」

 「煙草をやめた理由を話してない」

 「……面白い話じゃない」

 「入水じゅすいに面白い理由があるとでも?」

 呆れ混じりに言われ、男は口を噤む。その戸惑い顔を見て、少女はにやにやと笑う。自死を語るだけでなく、行動に移していながら、この娘は軽薄なまま、悲壮や苦悩を滲ませもしない。文字通りの決死の覚悟を阻まれているのに、そこに未練を感じているようにも見えない。ちぐはぐで収まりの悪い。

 少女は両膝を緩く抱え、男の顔を覗き込む。男の語るまで待ち続ける構えであるらしい。渋面を顔いっぱいに浮かべて、男はしばらく黙っていたが、最後には口を開いた。男には、娘の事情をどうしても聴き出さなければならない理由はなかったはずだ。語らず、尋ねず、有耶無耶にしてしまう手もあったはずなのだ。それにも拘わらず話したのは、ほんとうのところ、男は誰かに身の上を話したかったのかも知れない。

 「……嫁に逃げられたんだ」

 「あー、煙草がもとで」

 「酒と賭博と女」

 「数え役満」

 「それが、何度か」

 「場外ホームランだ。それで、煙草は? 火事でも起こしたのかね」

 「煙草を吸うと、思い出すからな。反省したし、もうしないつもりだが、忘れられるものでもない」

 「そういうものかね」

 少女は肩をすくめる。それ以上の特段の感想はないようだった。男の逡巡など構いもしない淡泊な声音だった。

 言い淀んだのは、嫌悪されることを怖れたためであったろうに、受け流されてはそれも納得のいかないようで、男は一層苦い顔をして、少女から顔を逸らす。胡坐の膝に頬杖をついて、思い切り溜息を吐く。それで、と口にする声は、叱られたあとの少年のよう。それを自覚していて、少女の、さらに笑いを誘うのもわかっていて、しかし男にはどうすることもできない。

 「あんたはどうしたんだ。聞いていいんだよな?」

 「うふふ、もちろんだ。なに、そうだな、試してみたかったんだよ」

 「なにを」

 「気づいているだろう。この体は妙に頑丈にできていてな。どういうわけか、切れも燃えもしない。ならば水はどうなのだろうと、そう思ったわけだ」

 少女は缶コーヒーのプルタブに苦戦しながら言う。男は眉を顰めて彼女を見た。何と馬鹿げた話をしているのだろう。思春期の肥大した自意識と、それに端を発する妄言の、行き着く先が昨晩の一幕だったというのか。いまどきの若者の、命を粗末にしすぎるなどという言説は、擦り倒された陳腐な表現ではあるが、いざ目の前にすると男のうちにはやはり憤りが巻き起こった。少女らしからぬ固い物言いも、根を同じくする表現型の一つか。昨晩に少女の身に引き付けていた幻想的な気配が、記憶のうちからも霧散するような思いがした。

 しかし同時に男は思い出した。この娘の、砂浜に襤褸布のように投げ出された姿を。そのときには確かに、呼吸も脈も絶えていたことを。多量に飲んだはずの水を、淡々と吐きだし、服を濡らす、月明りを不気味に返す少女は、確かにただの人ならざる気配を発していた。その理由はもしや。

 男はじっと少女を見据えた。少女は男の疑念などお構いなしに、缶コーヒーを男へ突き出した。不満げな顔の理由は、無論のこと男の信用を得られなかったことではない。毒気を抜かれ、男の口からため息がこぼれる。

 男が缶のプルタブを引いて返すと、少女は「ありがと」とはにかんだ。落ち着き払った、いっそ老成したとも形容すべき態度から、時折、外見に相応の仕草が顔を覗かせる。男は彼女への対し方を決めかねて、しかつめらしい表情で応ずるより外にない。

 波の上をちらちらと滑っては散る太陽光の反射に、目を細めながら、コーヒーを飲み下して、少女はひどく満ち足りた表情で息を吐いた。それから、そうだ、と男を振り向いて、ワンピースのポケットから、数枚の紙幣を剥き身で無造作に取り出した。男の驚きを上げるより先に、彼女はそれを男に突きだして言う。

 「これをやろう。昨日の礼だ。これで家に帰れるだろう?」

 「はあ? そんな物騒なものもらえるか」

 「いやいや、これは正当な、労働の対価だよ。真っ当な労働か、と問われると少々苦しいが」

 「正直で結構。あんたこそ、それで親もとへ帰るんだな。そして二度とそういうことはするな。親が泣く」

 「あはは、心配してくれるのは嬉しいがね。親はもとより親類縁者に至るまで、疾うに絶えている。ちなみに家もない」

 「そういうのは、嘘でも言うもんじゃ……」

 「これが本当なのだよ」

 ことさらに強調するでもなく、あっさりと言ってのける少女の物言いは、そこに相手を納得させようという意志を欠いていた。信じようと、信じまいと、どちらでも構わないと言うようだ。それが反って真実味を帯びさせる。問い詰めたところで、それらしい言い訳すら口にするつもりもないのかも知れない。

 苦し紛れに、男は少女の論の穴を突く。

 「今まではどうしていたんだ。昨日、突然に親も家もなくなったわけじゃあるまい」

 「そうそう。だからこれはお願いなのだが、しばらくお前の家に泊めてくれないか」

 「は?」

 「面倒になったらいつでも放り出してくれて構わない。苦労はかけない。どんなお礼でもしよう」

 どんなお礼でも、と言いながら、両手で己が身を示す、そこに含意されたものを隠すつもりもないらしい。つまりこれまでも、同じように、他人の家を転々としてきたのだろう。同じように、我が身を質に入れるようなことをしてきたのだろう。彼女の声音には、その行為に対する諦念も、自嘲も、それらを糊塗する媚びや挑発さえも含まれていない。彼女にとってこれは、ただ通り過ぎていく日常なのだ。いったいどれほど繰り返したなら、それが日常になるというのだろう。

 だから男が、少女の提案を呑んだのは、決してこの娘の若い肢体の魅力に絆されたからではなくて、拒絶したところで、彼女は、代わりを探して同じことをすると思ったからだった。なんの縁かこうして自殺を食い止めてしまった少女を、ここで見放しては、後悔が残ると思ったからだった。男はまだ、少女の言を信じたわけではなかった。死なないだとか、親がいないだとか、荒唐無稽な話を鵜呑みにできるわけがない。しかしその真偽は、結局、大局にさしたる影響を与えないのだ。考えるだけ無駄だった。

 「ああ、これでとうとう犯罪者か」

 男は溜息混じりに呟いて、ふらふらと立ち上がった。

 少女はぱっと顔を明るくして、男を追っていそいそと立ち上がる。

 「なに、これまでの悪事を思えば大したことではあるまい」

 「他人に言われたくはない。あと、その金は持っておけ。電車賃だけあとでもらう」

 「うん、そのあたりは任せる」

 ああ……、吐息とも呻きともつかない声を漏らして、男はふらつく足を街並みへと運ぶ。昨晩にもそうしたように、途中、足を止めて、日の当たる清らかな海原を振り返った。未練がましく、じっと見つめた。しかし今更、少女を放り出す選択もできなかった。

 ざやざやと吹きつける海風が、男を急かして、その背中を押した。ふたりはついに、海を離れて、日常の喧騒へと紛れた。そして戻ってくることはなかった。

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