月明りに沈む
茶々瀬 橙
1
ざやざやと、風が海へと流れていた。
煌々と照る月が星をかき消して、夜空は黒くのっぺりと広がっていた。
空と海との継ぎ目から、波が、音もなく、たっぷりと膨れて、一挙に浜へと押し寄せた。砂を洗って白波の立ち、そのときに漸くざぶと重たく音を立てる。そしてまた、静かに引けて、間を置かず、遠く水面が大きく持ち上がり、押し寄せる。海は静かに、しかし弛みなく脈動していた。
薄雲が月に伸び掛かり、水面に影が差した。辺りを覆った紗幕は風に吹かれ、疾く流されて、海は徐々に光を取り戻していく。その、寄せては返す汀を撫で、移ろう影の縁、取り残されるように、じわりとひと固まりの影が滲み現れた。
いつからそこにゐたのだろう。月明りを透かして、人影は淡く青白い光を宿している。確かに人の形をしてはいても、輪郭は月光に溶け、茫と揺らめいて頼りない。それは、ひとつには透き通るほど真っ白な髪が、風に巻かれていたためであった。そしてもうひとつには、人影は既に腰までが海へと浸かり、波の寄せると胸の上まで水面がせり上がって、流れに翻弄されていたためであった。
その仄白い後ろ姿が、徐々に丈を縮めていく。いや、浜を離れて沈みつつあるのだ。まるで月が、夜闇にたったひとつ、ぽっかりと空いた出口であるかのように、人影は沖へと歩みを進めていた。波に流され、ときに押し返されながらも、その姿は今まさに、海中へ没しようとしていた。
「おい、まじかよ!」
どこかで男の叫び声が上がった。堤から浜へ下る階段を、転がるように駆け降りる者がある。月明りの舞台へ新たに現れたのは、先の声の主と思しき男。彼は砂を蹴散らして浜を走り抜け、服の脱ぐ間も惜しければ、濡れるの構わず海へ駆け込んだ。寄せる波をかき、懸命にさきの人影のあったところを目指す。そのときにはすでに、あの人影は頭の先まで波の隙間に取り込まれていたが、長い白銀の髪が、まるで巨大な海月のように水面に広がって、その居場所を主張していた。男はがむしゃらに手を伸ばし、漂う髪を掴んで手繰り寄せ、ようやくその身を捉える。男の背丈であれば容易に足の届くほどの深さしかなかったが、夜間であり、焦りも相俟って、波に何度も足を取られ、その度に顔まで沈み、水を飲んでいた。咳をして、水を吐いた先から再び波を頭から被る。そんなことを繰り返しながら、男は這う這うの体で浜まで戻ってきた。
丁寧に横たえるような余裕もなく、男は腕に抱えた濡れ鼠を砂浜に放り出す。同時にその横へ自身も膝を突く。咳が止まらなかった。四つ這いになり、崩れるように肘まで砂に突いて、目も鼻も口もなく、男は液体を撒き散らした。
その一方で、隣はいたく静寂を保っていた。先までの光は嘘のように失われ、白い髪や服は、泥にまみれて一層無残な様を晒していた。そして髪の隙から突き出た、やはり黒く汚れた腕は、ぴくりともしなかった。
男は未だ空気を求めて喘ぎながら、漸く半身を起こしてこの死した海月を振り返った。白髪をかき分けて、これがうつ伏せていることに気づき、肩を押しやって身を転がす。そしてそこに現れた顔が、まだ年端もいかぬ少女のものであることに瞬く間だけたじろいで、それでも遠慮せず、思い切り頬を叩いた。
「おい、起きろ、おい!」
掠れた声を張り上げるも、少女は目を覚ます気配がない。男の手が少女の手首を探る。次いで首と顎の境へと滑り、同時に自分の頬を少女の口元へ寄せる。数秒のうちそうして、男は顔を上げた。脈もなければ、呼吸もない。男の顔が焦りに歪む。くそ、と罵って、彼はポケットを探った。この段になって通報せねばならないことに思い至ったのだ。しかし男は携帯電話を持っていなかった。辺りを見回す。街灯もろくにないような寂れた海辺を、日が暮れてから出歩く人影などほかにあるわけもない。どこかへ助けを求めに行かなければ。
男の立ち上がろうとした、その時だった。男の手首を、何かがしかとつかみ取った。
驚き慄いて、男はうおっと声を上げる。彼の手首に触れる、冷たく濡れた指は、他の誰でもない。少女のものだった。
男が見下ろす先、少女はいつの間に眼を開き、まっすぐに男を見据えていた。そうして口を開いたのは、なにか言葉を発しようとしたのだろうか。ところが声の代わり、あふれてきたのは海水だった。ごぼごぼと気味の悪い音が立て、少女は焦るでも、驚くでもなく、ただ顔をしかめながら水を吐く。彼女が徐に身を起こすと、尋常でない量の水が、さらに少女の服を濡らしていった。
非常識な事態に、男はただ茫然とその姿を見遣っていた。少女の胸元で、肌着の透けていることに気づいて、咄嗟に目を逸らすような配慮があったのは、冷静さを取り戻していたのでなくて、未だ我が目を信じられずにいたからだった。先は確かに、脈も呼吸もなかったのだ。どうして起き上がれよう。よしんばそれが誤りであったとして、これだけ水を飲んだあとで、むせるでもなく、淡々と吐き出せるものだろうか。まるで呼吸など必要はないが、話すには肺の水が邪魔だと、そう言わんばかりの様だった。
「塩っ辛いな」
そんな声で、男ははっと顔を上げる。いつの間に、少女は胡坐をかいている。渋面を浮かべ、ぺっ、と口に残った水を横合いへ吐き捨てると、大きな溜息を吐く。そのうえ落ち着き払って、しとどに濡れて乱れた髪へ手櫛を通す仕草は、つい今しがた入水を図ろうとした者とは思われず、それどころか、年頃の少女とすら似つかわしくないほど泰然としていた。
男は呆気にとられ、束の間瞬きさえ忘れていたが、こみ上げてきた咳で我に返る。止まらない咳の間に、途切れとぎれ言葉を口にする。
「その、あんた、大丈、夫なのか」
「よほどお前の方が大変そうだ」
「それは、そうだが。しかしおかしいだろう」
「そうだな、おかしいな」
少女はあっさり頷いた。我が身に起こったことを理解しているのか。やはり男の確かめたことに、間違いはなかったのか。少女は月を見上げ、言葉を失っている男へ、視線だけで笑いかけた。大人びた、やや皮肉めいた笑みだった。
「寒いな。お前、このあたりの人間か? 湯を借りたい」
「はァ? そんな呑気な」
「呑気なものか。風邪を引いたらどうする」
言ったそばで、大きなくしゃみをしたのは、しかし男の方だった。少女と同じく、男もまたずぶ濡れには違いなかった。そして、止むことなく流れる風は、夜気に春先の熱を失いつつあった。男はばつが悪そうに顔をしかめる。少女はますます意地の悪い笑みになる。
男は少女を見つめる。空元気で虚勢を張っている気配はない。なんとなれば男自身よりもむしろ健康そうである。しかしその肩は微かに震えてもいた。男は小さな革財布をポケットから取り出す。湿った財布にはカードの一枚も入っていなかったが、よれよれになった紙幣が何枚か残っていた。男は束の間逡巡して、財布ごと少女へ突き出した。
「あんたにこれをやる。駅まで戻る途中に銭湯があった、はずだ」
「あん? 他人の財布なんかもらえるか。お前はここの人間ではないのか?」
「ない。いいから行け」
「いやいや。意味がわからん。お前も行けばいいだろう」
言うや否や少女は立ち上がる。手や服にこびりついた泥を払い落とす。肌にはりつく衣服を気持ち悪く思ってか、ワンピースの腹のあたりをつまんで持ち上げる。手を放すと、冷えた布が腹に触れて、冷たっ、と小さな悲鳴を上げている。その間も、男は砂に座り込み、俯いて、受け取られなかった財布を持て余して宙を彷徨わせていた。
少女は彼を見下ろして、訝しげに目を眇めた。男を上から下まで眺めて、意地になっているのか、まだこちらへ差し向けられている財布へも視線を落とす。ほんの僅かの間、物思いするか、何かしら迷うか、そんなふうに口を噤んだあとで、低く鼻を鳴らす。冷たく突き放すような表情でいて、薄情な印象を与えないのは、そのあとで、彼女が男へ手を差し伸べたからだろうか。
財布ではなく、財布を掴む男の腕をとる。
「ほら、行くぞ。置いていけるか、こんなところに」
「それ、あんたの言える台詞か?」
「抗弁はできるらしいな。寒いと言っているだろう。ぐずぐずするな」
両手を使って、大きな蕪でも引き抜くように少女は男の腕を引く。しばらくはいじけた子どものように抵抗を示していた男だったが、最後には渋々と立ち上がるのだった。そのままずるずると手を引かれ、ふたりは海を遠ざかっていく。
男はもはや抵抗の意志をなくして、おとなしくこの不気味な白髪の少女に付き従っていた。
堤の階段を上り切ったところで、男は最後に、一度だけ後ろを振り返った。先刻、ここから、あの、今にも消えようとしている仄青い光を見つけたのである。今、改めてここに立ち、彼はそのときに感じたことを、漸く振り返ることができた。
なんと美しいのだろう。
自分では、ああはなるまい。
それは、あまりに不公平ではないか。
そうして、彼は駆け出したのである。結果的にひとりの人を救うことにはなったが、その動機は、人命救助などではなかった。ふっと自嘲して、男は進む先へ向き直る。目の前には、今も自分の手を引く少女の姿がある。
この少女はいつの間に、月明りをその身に受けて、徐々に光を取り戻しつつあるように思われた。死に際していなくとも、やはり美しかった。
ざやざやと吹き続ける陸風に抗って、
夜空に唯一の出口からも背を向けて。
彼らは頼りない街明かりの底へ沈んで消えた。
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