20240816
ずっと空が暗かった。雨が降る前の、夏の夕方みたいな、重いのにうっすらと茜に染まる空が頭上にあった。そこは住宅街で、多分、私は何か理由があって歩いていたと思う。
道中、先生に出会った。先生といっても教師ではなく医者だ。四、五十代くらいの男性で、白衣を着ている。いつの間にか私は建物の中にいた。今まで歩いていた道も、もしかするとこの病棟の中だったのかもしれない。この場所は何かがおかしいから。
ここに至るまで、毎秒不安が付き纏っていたことだけは確かだ。そして長い時間が経っていたはずだ。けれどよく思い出せない。先生にいくつか質問をされた。私以外にも人がいて、私たちは授業のような形で先生の話を聞き、問いかけられ、私だけが答えた。何か、自分の意思のようなものを答えたのだと思う。そうして私が今いる部屋から奥の廊下へ目線をやると、暗がりの中にそれが立っていた。若い男性の形をしたそれは、水色の作業服のようなものを着ていた。顔はよく見えない。廊下の闇に不自然に塗りつぶされ、彼の背後に何があるのかもよく見えなかったが、ぼんやりと、数多の配管が見えたような気がする。ここはどこなんだ?
私はその廊下の先へ進まないといけないのに、ただ立っている彼が恐ろしく、ぞっとして、躊躇う。それでも進むしかなく、狭い廊下で立ち尽くす男とすれ違うことにする。息がかかりそうな距離でも顔が見えなかった。
いよいよ彼の横を通り過ぎるという時だ。体が無機質な床に押し倒される。彼に押さえつけられて、十字架のように両手を廊下に広げることになる。指先や腕が内部からびりびりと痺れるような刺激を受ける。私は、人間の皮はそのままに精神だけ裏返されるような、そんなことをされたのだと分かった。ゴム手袋を裏返すような感触が精神に直接あって、全身が粟立つ。怖い。意味不明な事象への恐怖。無理やり発狂させられるような、精神を破壊されるような。
気づけばとある部屋の前に立っていた。扉は開け放たれ、一歩踏み出せば室内に入ることができる。でも絶対に嫌だ。ここは病棟。精神を裏返されたものだけが、深い深い階層に隔離された化け物たちの専属看護師となる。そんなものにはなりたくないのに、勝手に裏返されてしまった。今、私の背後には先生と何人かの人がいる。正面の室内には、首が三つある女の化け物が立っていて、そばに複数の看護師がいた。今いる場所はかろうじてくすんだ色彩が見られるが、化け物の病棟からは存在する全てが白黒になっていた。
私は、ここで看護師になるらしい。それがとても受け入れられなくて、踏みとどまっているが、先生が言う。
「君には素質がある。君は私の質問に自分の意思を答えた。それが素質だ。裏返されて深層で生きられる素質があった」
どん、と背中を押された。精神が裏返されていてはろくな抵抗ができない。ぐらりと揺れるまま、私の体は部屋へ踏み込んだ。途端に、水中にいるような息苦しさと湿度の高い重い空気が纏わりつく。液体呼吸をしているようだった。そして理解する。急に頭が冴えて冷静になる。裏返されたなんて大したことではないじゃないか。深層なんて、さほど恐れるものじゃない。
こうなると容易に動くことができた。部屋にいる化け物は哀れな患者だと分かった。看護師は若い女しかおらず、くたびれた看護服を着て、みんな顔色が悪く、喫煙者だ。三つ編みの先輩看護師に、仕事を尋ねる。
私はこれから深層の看護師だ。
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