20200728

 恋人がいる。その人とベッドの中で笑い合っている。息を継ぐのも惜しい。部屋にあるデスクの上、放り出されたアルバムの中に挟まれたたくさんの記憶。写真を入れるポケット一つ一つに鍵がついていて、取り出せない。誰にもこの思い出は持ち出せない。なぜならこれは兄のものだ。私の思い出は管理されている。


 いつの間にか私は一人になっている。部屋はずいぶん広かった。薄暗く、湿っている。勉強机を取り払った教室のような部屋の隅で、がらりと引き戸が開く。胴体に一つ目がついた緑色の小さな化け物が入ってくる。私がアルバムをめくりながら「鍵が見つからない」といえば「そう言う時はここに」と、アルバムの一番最初のページを開く。そのポケットにはたくさんの鍵が入っていて、さすがだな、すごいな、と思う。けれど目当ての鍵はなかった。

 落胆しながら廊下に出ると、天井近くに長方形の小さな明かり取りの窓が並ぶ、半地下のような場所だった。鉄格子で区切られた部屋がいくつもある。牢獄なのだろうか、と考える。牢獄だとしたら、なぜ私はここにいるのだろう。

 ここには私の隣にいる小さい彼の他に、胴体に巨大な目がついた緑の化け物はあと二人いる。大中小の三人で、兄弟かもしれないし、そうじゃないかもしれない。私をここから連れ出すために案内してくれている小さな化け物は、開いた牢から出てきた大きな化け物に「あ、◯◯◯◯様」と声をあげるが無視される。カタカナ4文字の名前だったことは記憶しているのに、思い出せない。化け物の大きさと異質な空気に竦んだ私に、横から小さな彼が言う。

「絶対に◯◯◯◯様って呼んじゃだめだよ、怒るから」

「君は呼んでたのに?」

「俺はそうやって呼んだところで、怒る気も起きない価値のない存在ってことさ」

 そんなことはないのに、と私は思う。


 廊下を進むうちに、見知った人が立っている。母親だった。私は途端に、今度は家の鍵を持っていないことに気付いた。このままでは帰れない。引き返して元いた部屋に戻ろうとする。あの鍵の束にもしかしたら自宅の鍵があるかもしれない。母親と小さな化け物が背後で何か言うのを聞きながら、私は小走りに廊下を進む。


 結局、私一人では元の部屋に辿り着けなかった。迷い込んだグラウンドには、ラグビーボールを投げ合っている男子生徒たちがいる。女子生徒は興味なさげにお喋りしていた。私の隣には消え去っていたはずの恋人がいて、私たちは飛び交うボールの間を通って向こうの校舎へ行かなくてはいけない。ボールはとてつもない速さで投げられている。

 タイミングを計らって抜けようとしたつもりが、茶色い物体が向かってくるのが見える。このままでは恋人に直撃するのは間違いなかった。私はとっさに、ボールと恋人の頭の間に左手を伸ばす。ばしん、と強烈な衝撃が手の平を痺れさせる。痛かった。けれど当たらなくてよかった、という気持ちのほうが強かった。

 グラウンドを超えると校舎へ入る中庭のような小さな広場があり、そこには百日紅の木が植わっている。校舎の影と木漏れ日がきれいに落ちている。周りには数人の女子生徒がいて、私たちもその輪に加わる。百日紅の花は咲いていない。つまりまだ夏ではないらしい。つるつるとした木肌を撫でているうちに、私は背の低い枝に足を掛けてほとんど無意識のうちに登る。おっとりとした女の子が「百日紅っていいよねえ」と言うので「でも、百日紅の木には蟻が歩いてるんだよ」と教えてあげる。すると、長い黒髪につり目の、クールで気の強そうな背の高い女の子が「その木に登るな」と私を叱りつけた。ひどく嫌悪のこもった声だった。「私のいたところは木登りが普通で」と言い訳してみたけれど、ふん、と鼻を鳴らし、彼女はどこかへいってしまった。私のいたところとはどこだろう、とぼんやり思う。


 百日紅を後にして、私たちはぞろぞろと校舎に入った。これから家庭科室に行かなくてはならない。なんといってもここは学校だ。私たちは学ばなくてはならない。でも、私のいた場所ではない。ここは別世界、異世界、魔法を学ぶ。それだけを理解している。私はここに連れてこられた。

 家庭科室から百日紅は見えなかったけれど、古い木造りの教室には昼の光が射し込んでいて、よかった。

 一番乗りだったので、どこに座ろうか迷い、決めた席の、背もたれのない木組み椅子は三本脚の内一本が異様に長くて座れない。椅子を交換すると、近くにいた男子生徒がにやにや笑っている。変えた椅子がまた一本だけ脚を伸ばし、ぐらつく。この男子生徒がくだらないことに魔法を使っているのだとわかって「くだらねえことすんなよ」と言えば途端に涙目になり震え出した。馬鹿だと思う。

 まともな椅子を寄せてきて座り顔を上げると、一人の生徒が私のそばに立っていた。肩で切りそろえた艶やかな黒髪、白い肌、細いフレームの眼鏡、そして、黒いローブ。それは特待生の印だった。

「あ、君は」

「あ」

と二人して声を上げ、お互いに最初に見かけた時のことを思い出す。私たちはすでに一度顔を見ていた。いつだったか、わからない、けれどすれ違うような、ほんの数秒の間だけ、存在を認識したことがある。

「ちょうどいい。君に◯◯◯をかけないと」

 彼女は優等生然とした見た目とは裏腹に、ざっくばらんとした口調で言う。

「今? ここでできるの?」

「できるよ。座って」

 立ち上がりかけた私をそう制した彼女の足元には、カカポのような見た目の、赤い鳥と青い鳥。かわいいな、けれど、どうしてここに、使い魔だろうか、それとも授業で使うのか。

 特待生の動きを他の生徒も見ている。当たり前だ、特待生なんて普段お目にかかれるものじゃない。特別優秀で、難しい魔法を扱える。私は抵抗出来ない。顔に手をかざされる。されるがままだ。目を閉じる。何も考えられない。じわじわと目の奥が暖かい。脳が薄くて柔らかな布で包まれて、本当の私が閉じ込められていくみたいだった。

 ぼんやりとする思考の隅で強烈に思うことがある。今、この教室の隅で他の生徒と同じように私の様子を見ている恋人の気配が、私の思考を支える。私の記憶が閉じ込められたら、恋人はどうなるんだろう。この知らない世界で一人きりになってしまったら?

「お願い」

 私は言う。声が小さくて特待生の彼女に届かない。もう一度「お願い」と絞り出す。彼女は「ん? なに?」と私の顔に耳を寄せる。

「◯◯◯のことは消さないで」

 思ったように声が出ないまま伝えたそれに、彼女は少し面食らったような間を置いて、困ったように空気だけで微笑む。


「でもこれが君のためだから」


 そうだ、私を守るためには仕方ないことだ。私が別の世界から来て、そこの記憶があると皆に知れたら大変なことになるのだ。でもやっぱりどうしても恋人が気がかりで、結果として私は「記憶ごと包まれる」ことになった。本当なら「記憶だけが包まれ」て、私の意識は背後にある記憶にかけられた布に気づかないまま、楽しくお喋りしたりできたのだけど、「記憶ごと包まれた」私は、記憶と一緒に布の中から今の世界を見ている。だから、うまく声が出ない。そこにいる恋人の名前を呼べない。私はここにいるのに、まるで置物のようにぼんやりと、混濁した目を宙へ向けることしかできない。

 私の名前を呼ぶ声がする。

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