第5話 懐胎

「い……いや……」


 紬は恐怖と嫌悪感に顔を歪ませ、後ずさる。

 すでに部屋には大量の赤黒い胎児が蠢いていた。


「あ、ああ……」


 紬は恐怖に顔を歪めながら、必死に後ずさる。

 しかし、その足はすぐに壁へと突き当たる。


「い、いや……助けて……」


 紬は目に涙を浮かべながら、そう呟く。


「助けて……たすけて……」


 紬は必死に助けを求める。

 しかし、その声が誰かに届くことはない。紬自身は知らないが、もはやここは隔絶された異界なのだ。


「あ、ああ……」


 紬は絶望に顔を歪める。


「ママ……」


 足元から声が響く。肉の塊が紬の足に絡みつき、そして彼女を引きずり倒した。


「ああっ!」

「ママ……」

「マム……」


 赤子たちは、紬の衣服を引き裂き、彼女の柔肌へとその手を伸ばす。


「いや……やめて……」


 紬は必死に抵抗しようとするが、赤子たちの力は強く、振りほどけない。

 そして、赤子たちは紬の乳房にしゃぶりつき始めた。


「あ……ああ……」


 紬は絶望の声を上げる。

 しかし、その絶望は赤子たちにとっての至上の快楽であった。


 搾乳。

 それは生まれることの出来た赤子の特権。生まれる事の出来なかった水子たちがやっと得られた、生の喜び。


 そして自分だけ生き残った綾瀬紬の負った責任。生者の背負う罰。姉を見捨てて助かった彼女の罪。

 だから紬は肉の水子達に貪られる。そうしなければならないのだ。


「あ……ああ……あ」


 快楽など無い。あるのはただ恐怖と絶望。


「あ、ああ……」


 紬はただ恐怖と絶望に泣き叫ぶ。


「ママ……ママ……」


 赤子たちが、紬の体を這い回る。


「いや……いや……」


 紬は涙を流しながら首を振る。しかしそれは赤子たちの嗜虐心をそそるだけの行為だ。

「母親」である紬に対して愛など無い。あるのはただ、羨望と憎悪と嫉妬のみ。それが水子なのだ。


「ひっ!」


 そして。

 紬の眼前に、ひとつの肉塊が盛り上がる。それは、まさに肉塊だった。


 臓物だ。

 臓物がせりあがる。その頂点にあるのは、脳と眼球、歯と舌。

 皮膚と肉と骨の無い人間――そういったモノだった。


「マ……マぁ……」


 それは、紬の股間へと這いずる。自身をそこに押し付ける。


 何のために? もちろん、性欲を満たすため――などではない。赤子にはそのような欲はない。

 それにあるのはただひとつ、産まれたい――ちゃんと産まれ直したいという欲望と渇望と切望のみ。

 お前には、その責任がある。そう内臓の塊は視線で訴える。


 そ う だ ろ う ? 叔 母 ち ゃ ん。


「あ、あ……ああ……」


 紬は恐怖に顔を歪ませながら、必死に首を振る。


「いや……いや……」


 だがそれは紬の拒絶を許さない。赤子たちは彼女の体を貪る。その体を蹂躙する。

 それでも、その胎には挿入れない。紬の最後の理性がそれを拒絶する。


 だが。


 挿入れる穴は、下の穴だけではない。


「――」


 内臓だけでできた、皮膚の無い貌が嗤う。


 そして。


「んんっ! ――んぶうっ!」


 ずるりと。


 内臓の水子は、紬の口へと入っていった。


「んぐぅうううううううううっ!!」


 ベランダをよじ登り、俺達は三階へと上がる。

 その部屋では、産み捨てられた大量の嬰児の死体が散乱していた。


「マ……マ……」


 嬰児たちが、胎児達が悲しそうにうめいている。

 だがこれもトラップだ。ダンジョンが生みだした悲劇の記録再生に過ぎない。


「行こう」


 血濡れの部屋を俺たちは出る。廊下もやはり真っ赤で、そして脈打っている。

 まるで血管のように赤い廊下だ。

 その中を俺たちは、襲い来る赤子たちを切り捨てながら進む。ううん、精神衛生上この上なく悪い。


 四階へと続く階段にたどり着いた時、


「こ……この子を……」


 赤子を抱いた血まみれの女性がうずくまっていた。


「十児」


 桐葉が言う。ああ、わかってる。


「こ……この子を。この子を……お願いします、この子だけでも……!」


 女性は赤子を俺に差し出す。


「この子だけでも……お願いします」

「……」


 俺は無言で、その女性を見る。そして。


「ああ、安心しろ」


 そう告げ、赤子を受け取った。


「ぉぎゃあああああああああああああ!」


 次の瞬間、赤子はその口を大きく開け、俺にかじりつく。

 俺はそれをただ黙って受け入れた。


「く……っ」


 べきべき、ばきばきと赤子の顎が俺の左肩を嚙み砕く。


「十児!」

「ああ、大丈夫だ」


 俺は桐葉ただそう返す。

 気づけば、赤子も、その母親も消えていた。


「……姑獲鳥ね。赤子が噛みついたということは、東北福島の「オボ」に類するタイプの怪異ね。

 ……でもわかっていると思うけど」

「ああ、本物の母子の霊が怪異化したものじゃない、だろ」


 このダンジョンはそういうものだ。たったひとつの在り方を元に集積した呪詛が、ただただ記録を再現しているだけのものにすぎない。言い換えるならば、たったひとりの被害者かんきゃくのために用意された悪質な見世物小屋おばけやしきだ。


 だけど、それでも。


「願われ託されたなら、それが偽物でも、さ」


 俺は、赤子の噛み痕から流れる血をぬぐいながらそう言った。


「行こう。四階はすぐそこだ」

「ええ」


 そして、俺たちは四階へと上る。



 四階。


 そこは、まるで病院のようだった。

 白く大きな廊下が続いている。今まではマンションの原型をとどめたまま広く変質していたが、ここは空間そのものがもはや別物になっていた。


「……」


 そして、その白い廊下には。

 無数の死体が散乱していた。

 それは、母親なのだろう。若い女性……いや、少女と言っていい年齢だった。

 そして、みな同じ顔をしている。


「……綾瀬?」


 似ていた。本人ではない、しかしよく似ていた。

 これは……。


「姉、ね」


 桐葉が言う。そうか、これは綾瀬の姉なのか。

 ……悪趣味だな。俺は無言で、その死体を見る。


「……」


 そして桐葉も。


「……行きましょう」


 俺たちは、廊下を進む。すると、その先には扉があった。

 そこに描かれている文字は……


【分娩室】


「……」

「意味深ね」


 桐葉が言う。これは……。


「ああ。だけどここが、この幽世宮の中心……か」


 俺は扉を開く。

 分娩室と言いながら、そこは病院のそれではなく、ただのマンションの一室だった。

 血で赤く染め上げられた、暗い部屋。


 そこにいたのは……。


「……綾瀬」


 裸で立ちすくむ、綾瀬の姿だった。


 綾瀬はこちらを見て、妖艶に、薄く笑った。

 その瞳には、狂気が宿っていた。

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