第4話 幽世宮

 綾瀬紬の自宅は、マンションである。一人暮らしだ。


 姉がああなって、両親は娘と向き合う事を止めた。それを薄情だという者も多い。しかし、幸せに暮らしていた日常が悪意によって壊された時、果たしてどれだけの人間がその現実を真正面から受け止められるというのだろうか。

 紬を見ていたら、姉の悲劇を思い出してしまう。


 故に、綾瀬家は、家を引き払った。姉の思い出が――痕跡が残る家が耐えられなかったから。


 両親は圏外に引っ越し、紬は一人でマンションに住むことになった。

 生活費は十二分に払っている。もっとも、その手続きすらも施設任せであり、もう紬と両親の繋がりは実質的に完全に切れているといっていい。


「……ただいま」


 返答の無い、無人の家。

 紬は一人、誰もいない家に帰宅する。


「……」


 そして紬は、自分の腹部を見る。

 そこには……もう何もない。だが、さきほどまで確かにあったのだ。生々しい、呪われた赤子のような肉腫が。


「お姉ちゃん……」


 姉の事を思い出すと、自然と涙がこぼれる。

 姉がなぜあんな目にあわなければならなかったのか。


『ごめんね』


 姉の最後を思い出す。お腹の子と共に、身を投げてアスファルトの赤い花と散った姉。


「……」


 紬は、自分の腹部を見る。そこには何もないが……。


『お姉ちゃんね、もうダメみたい』


 姉はそう言った。そして、最後にこう続けた。


『産みたくない』


 ああ、だから。


 アレは出たのだ。親から存在そのものを否定された、おぞましい……水子。

 自分を産まなかった親を憎み、のうのうと生きている紬を憎み、そして紬を呪った。


「っ!」


 ぞわり、と紬は全身に鳥肌が立つのを感じた。


「な……何?」


 何かいる。この家に、何かが……いる。


 おぎゃあ、おぎゃあ。

 声が聞こえる。

 赤ん坊の、泣き声が。


 紬は部屋を見渡す。誰もいないはずなのに……。


「ひっ!」


 そして、それはいた。部屋の天井からぶら下がっている、肉の塊のような赤子が。


「な……何これ……」


 紬は後ずさる。

 ぼとり、とそれは地面に落ちて、泣く。「おぎゃあ、おぎゃあ」

 そしてそれは……紬の足元へと這いずって来る。

「ひっ!」

 紬は後ずさるが、すぐに壁に背中がついた。

「あ……ああ……」

 おぎゃあ、おぎゃあ。


 赤子は泣く。その泣き声に呼応するかのように、部屋の影から、闇から、次々と、ずるり、ずるりと胎児たちが這い出て来る。

 おぎゃあ、おぎゃあ。

 おぎゃあ、おぎゃあ。

 おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ――――


「い、いやああああああああああああああ!!!!」




「これは……」


 俺達は綾瀬のマンションへとやってきて、その異変に気付いた。

 この禍々しい気配、間違いない。


「異界化してるわね」


 異界化。


 それは、現実と幻想、彼岸と此岸、現世と幽世が混ざり合う現象。

 異界と化した場所は、他人からはそうと認識されず、そして無関係な者を内に入れる事のない、閉ざされ隔離された牢獄ダンジョンとなる。

 そう、牢獄だ。

 偶然迷い込んだものや、その異界を作った原因が狙っていたものを閉じ込めて喰らう牢獄。


 それを俺たちは≪幽界宮かくりのみや≫と呼んでいる。

 幽界宮に囚われた者は、そのまま衰弱して死ぬか、中の妖怪魔物たちに食い殺される末路が待っている。


 だが、だからこそ――手遅れになる前に。


「行こう、桐葉」

「ええ、分かってるわ」


 桐葉は頷いた。

 俺は異界化したマンションに向かって進む。

 幽界宮は本来、認識もされず、そして侵入者を拒む。異界にして結界だ。

 だが、この俺の体質なら、何故か素通り出来るのだ。


 俺はマンションのエントランスに入っていく。


「……これは」


 第一印象は、赤い、だった。心なしか脈打っている感覚さえ覚える。

 まるで生物の内臓のような……。


「胎の中、ね」


 桐葉がつぶやく。確かにそうだ。


「腹を破裂させて死んだ男たち。綾瀬さんの腹に浮かんだ胎児の肉腫。今回の事件、赤子がらみってことのようね」

「ああ、多分な」


 エントランスには郵便受けがあった。

 それらがガタガタガタと震え出す。


「……早速か!」


 俺は村正を抜く。それに合わせたかのように、郵便受けが開き、そこから……巨大な胎児が次々と飛び出してきた。


 おぎゃあ、おぎゃあ。

 それは泣き叫ぶ赤子たち。その肉塊は俺達に向かって這いずってくる。


「くっ!」


 飛び掛かってくる肉塊の胎児を切り裂く。感触が気持ち悪く、そして痛々しい。


「おぎゃあ! おぎゃあ!」


 切り裂けど切り裂けど肉塊の胎児は次々と出てくる。その数は、マンションのエントランスを埋め尽くさんばかりだ。


「キリが無いな」


 俺は村正を構えて桐葉に言う。


「そうね。だけどこの胎児たちは引かれて這い出てきたただの水子の出来損ない。本体、本質じゃないわ」


 胎児をぐちゃり、と踏み潰しながら桐葉は言う。


「彼女の部屋は四階の402号室よ。さっさと行きましょう」


 桐葉はそう言うと、階段に向かっていった。


「エレベーターは? 動いているようだが……」

「冗談。異界化したマンションの中のエレベーターなんて、口の中に入るようなものよ」


 桐葉は視線でエレベーターを差す。

 ちょうど階の表示が一階を差し、そして……そのガラスの向こうでは、


『来いよぉぉぉ……こっち来いよぉぉぉ……』


 大量の胎児にまとわりつかれた、いや取り込まれかけ融合した男がガリガリとガラスを引っ搔いていた。


「行く?」

「階段で行こう」


 俺は桐葉にそう答えた。



 *

 階段に出て来る肉胎児たちを切り捨てながら、俺たちは二階へと上がる。


「……っ、ここから上には行けないか」


 肉が壁のように階段の通路を塞いでいた。


「回り道ね」


 俺達は各部屋が並んでいるマンションの廊下を走る。


「……くそっ、長いな!」


 廊下が異常なほど長くなっている。これも異界化しているがゆえだろう。


「仕方ないわ。ここは幽界宮、現実とは隔離されたダンジョンだもの」


 桐葉がそう言った瞬間だった。


「っ!」


 壁から大量の手が伸びてきた。その手は俺達を捕らえようと伸びて来る。


「この!」


 俺は村正でその腕たちを切り裂く。しかし……。


「っ、キリがないな」


 切り裂いても切り裂いても壁から手が伸びて来る。


「大人気ね十児。嫌われ者の名は返上かしら」

「そうだといいんだけどね!」


 どう見ても好意じゃなくて殺意で群がってきている。


「こうなったら……近道するか!」


 そして俺は廊下に並んでいる部屋の扉に手をかける。


 202号室、開かない。

 203号室、開かない。

 204号室――開いた!


「ベランダから直接上に行く!」


 俺は扉を開け、204号室に入り



 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 うんであげられなくてごめんなさい。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 でもね、あなたをひとりだけおきざりにはしないから。

 ままもぱぱも、いっしょにしんであげるから。

 てんごくでさんにんでくらしましょう。

 ねえ、だから……いっしょにしにましょう、あなた。


「いや、俺はあんたの旦那じゃないよ」


 部屋に入った途端に視界と思考が真っ赤に塗りつぶされたけど、それでも俺は返答を返す。

 赤い部屋には、下半身を真っ赤に染めた女性。そして手には包丁を持っている。


「一緒にはいけない。だけど、あんたの想いは……俺が受け止めるよ」


 俺はそう言う。

 俺の言葉に女性は、


「一緒にぃいいいいい!!!!!!!」


 包丁を振り上げる。

 俺はその刃を――手でつかみ、受け止める。

 次の瞬間、その女性は――砕け散った。


「無駄よ」

「……桐葉」

「それは、亡霊じゃない。魂じゃない。このダンジョンによって構成された、呼び込まれ再生されただけの記憶の残滓、ただの悲劇の記録にすぎないわ」


 このマンションの部屋には、ああいった悲劇の記録が再生されているんだろう。おそらくは、赤子に関連した悲劇、惨劇の数々が。


「……わかっては、いるんだけどな」


 さっきの女性は、この幽世宮のトラップにすぎない。俺が何を想い何をしても、彼女を救う事は出来ない。動画に話しかけても意味が無いのと同じだ。

 だけどそれでも、こういうことがあったのだと覚えている事が、きっと何かの手向けにはなるのだろうと……俺は思う。


「……行こう」


 一瞬黙祷を捧げた後、俺は血まみれの部屋を通り、ベランダへと向かった。


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