事件
さて、ここで私の家と隣家の情報を一通り書いたところで私の目撃した事件の話に移ろう。それは私が引越してから四日後の五月十三日の事で、ベッドもようやく用意したような時であった。その時期にしては珍しく蒸し暑い晩のことだったのを覚えている。私はこの場所での仕事をそろそろ探さないと等と考えながら床についたのだが、ふと目を覚ましてしまって時計を見ると午前三時。やることもないが、中々に再び寝ることができない。もう一度シャワーでも浴びようかとも考えたが、面倒くささが勝ってしまい、結局ベッドで芋虫のようになっているのが関の山であった。
ベッドの側のカーテンを開けると、谷筋の家々の明かりがチラホラと見えた。そこでふと私に面白い考えが浮かんだ。
「よし、谷筋の家を覗いてやろう」
午前三時に起きて何かをしているなんて物書きかなんかぐらいのものだろうが、何も娯楽のないこの部屋から得られるものなんてこんなものだ。覗くだけなら対して心も傷まない、第一覗いたからといって何になるのだ。
私は趣味のバードウォッチング用の双眼鏡を取り出してそっと外を見てみることにした。一番近い家を覗いてみると、カーテンが開いていて中は丸見えだった。といっても逆光で何か机に向かって書いていることぐらいしか分からなかった。時折飲み物を飲んだり鼻を噛んだりするぐらいで、特に面白いこともなかった。今考えてみれば何がそんな面白かったのかわからないが、私はその家を三十分ほど覗いていたらしい。その家の明かりが消えてしまったので、次の家を見ることにした。
「おや、あんなところに家があるのか。いやあの家は少し奥まっただけであの住宅街の中の一軒にすぎない。やけに長い窓のようだが、なんの部屋なのだろうか」
それが問題の家であった。最初はカーテンが閉まっていて、長い窓枠から室内光が見えるだけで、ハズレだと思った。
少し待っていると、女が一人右から部屋に入ってきたようだった。それが何か違和感のある動きで、長い髪の毛を振り回し慌てているように見えた。その後、女の影は左にはけていって、元の何も映らない窓枠に戻った。すると部屋が点滅したように一瞬真っ暗になったが、すぐに明るくなった後、大きい男の影が右からやってきた。何か先程の女を追いかけているように見えた。
よく見るとその男の手にはナイフのようなものが握られているらしく、男は胸の前にそれを構えて走っているようだった。
男は窓枠の左端まで来ると、ナイフを持っていない手を伸ばして何かを引きずり出した。
人間だ。先程の女に間違いないのだ。
そこからは私がアッという前に事は済んでいた。男はその女の腹に向かってナイフを何度か突き刺し、引き抜いた後に女の体を突き飛ばした。引き抜くたびにカーテンに黒い影が新しく増えていくが、女から吹き出した血の飛沫なのだろう。何かの芝居を見ているような気分だった。
丁度殺人影絵が映っているのが、カーテンと照明の関係がスクリーンとプロジェクターに思えた。私はどこか遠い世界のフィクションなのだろうと、目撃しながら他人事のように思えてしまっていた。
ガタッと足元から音がして、私は飛び退いてしまった。手に持っていた双眼鏡が落ちたのだ。そこで漸く私は自分の体がガタガタと震えていることに気がついた。
人殺しだ。
目の前で人が殺されたのだ。
それも私は唯一の目撃者に違いないのだ。
警察に知らせるべきだろうか?
いや、最後まで取り敢えず見届けるのが先だ。
私は再び双眼鏡を手に取り件の家をもう一度覗き始めた。男はまだ影絵の中にいて、立っているようだった。
私は先程と違う一点に気がついた。カーテンが少し開いているのだ。そして、こちらを見ているようなのだ。私は弾かれたように窓から離れて部屋の隅に蹲った。
あの男は私を見ていたのだろうか?
いや、あの距離で見えるはずがない、周りの目撃者を見ていたのだ。
いや……もしかするとあの男も私と同じように双眼鏡を……?
事件のことを通報する手が震えてしまって、上手く電話が掛けられない。
落ち着け。
あの男がもし私に気づいていたとしたら私を探しに来るに違いない。私の家の電気は付いてはいないが、もし双眼鏡で見ていたらカーテンが開いていたので人が見ていたことは気づくだろう。
こんな時間にあんな残虐な事件を起こす人間が目撃者を生かしておくだろうか?
私の通報で犯人が捕まったとしても、出所した犯人は私を探すのではないか?
そんな考えが頭をグルグルする中、私には一つの考えがあった。
2週間ぐらいなら家にある食料で食いつなげられるから、それがなくなるまでは籠城作戦をしよう。新聞やニュースで事件の動向は伺えるし、雨戸さえしていれば例え犯人が家に来たとしても侵入するのに時間がかかるだろう。そのうちに逃げられる可能性も低くはないし、何より準備ができる。女一人を問答無用に刺し殺せる人間に抵抗できるかは謎だが、とにかく私にできる対抗策はこれぐらいであった。
その籠城の間に犯人が捕まれば良し。捕まらなければ……あまり想像はしたくなかった。
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