第38話 美人の先輩の弱気を感じた

 俺が先名さきなさんに言ったこと。それは同島どうじまが気になっているという意味のことだ。


 俺からの同島を見る目が変わってきているのは確かで、同島からも同じような変化を感じ取っている。


「もう、どうしてこのタイミングなのかなぁ。さっきの言葉を聞いちゃったんだもの。もう行けないじゃない……」


 俺がランチに誘うと先名さんがそうつぶやいた。その意味は分かる。といっても、先名さんと同島のあの会話を聞いていたからこそだ。


 先名さんは同島に遠慮しているに違いない。同島の背中を押した手前、俺からの誘いに応じるわけにはいかないと考えているのだろう。なんて律儀な人なんだろうか。


「行けないなんてことはないですよ。この前せっかく誘ってくれたのに、断ってしまったことの代わりですから」


「えっ、でも……」


 先名さんが言いよどんだ。俺は初めて先名さんの弱気な姿勢を見た。さっきまで俺の耳元でささやくという、生ASMRをしていた人とは思えないほどに。


「どんな理由があるかは分かりませんけど、職場の人と一緒にランチに出かけるのは普通のことだと思いますよ」


「うん、それはそうなんだけどね……」


「俺は先名さんからランチに誘ってくれたことが嬉しかったんです」


 俺自身、とてもズルいことを言っている自覚はある。ただ先に誘ってくれたのは先名さんだから、その気持ちを無かったことにしてしまうことは、俺にはどうしてもできなかった。


 俺がそう伝えると、うつむきがちだった先名さんは少しだけ俺のほうを見て口を開いた。


「えっ……! そう言ってくれるの?」


「なので何も問題ないと俺は思います」


桜場さくらばくんは同島さんと行きたいんだろうなって……」


 ここまで言ってもまだ先名さんは曖昧あいまいな反応なので、俺はなんとしても先名さんの首を縦に振らせたくなった。


「仕方ないですねー」


 俺はそう言うと先名さんの左側へ移動して、吐息がかかりそうな耳元でこうささやいた。


「俺が先名さんと行きたくて誘っているんです。俺と一緒じゃ嫌ですか?」


「んっ……! そっ、そんなわけないじゃない」


「それなら決まりですね」


 俺はそう言い残して再び適度な距離を取った。仕返しのASMRというわけだ。


「もう! 桜場くん、一体どこでそんなこと覚えたの?」


「ついさっきです」なんて言ったらどんな反応をするだろうか? めちゃくちゃ怒られるか、ドン引きされるか、恥ずかしそうにするか。

 いずれにしろそんなこと言えるわけないので、俺は答えず話を進めた。


「それでいつが都合いいですか?」


「ちょっと今日は難しいから、明日はどうかしら?」


「大丈夫です。では明日にしましょう。楽しみにしてますよ」


「やっぱり君、意地悪だな?」


「いえいえ、そんなことはありませんよ。そろそろ戻らないといけないので、失礼します」


 俺はそう言うと先名さんを残して持ち場へと向かった。先名さんは今どんな表情をしているのだろうか。


(やりすぎた!)


 戸惑う先名さんがあまりに珍しかったため、戻る途中で、俺はつい調子に乗ってしまったことを反省した。先名さんが言い淀んだのは同島を気遣ってのこと。ただ先名さんが寂しそうな表情をしていたことも事実。


 本当にその気が無いならハッキリ断るんじゃないかと思ったんだ。同島を気遣っているなら日を変えようが一緒だし、だから俺は先名さんが応じやすいように促した。


 俺だって先名さんを困らせるようなことはしたくない。でもむしろ逆効果だったのでは? そもそも俺があのタイミングで誘わなければ。いや、俺が強引に誘ったのが悪いことにして、先名さんの気持ちの負担が少しでも軽くなればいいな。


 何が正解か分からない。そんな疑問が今日は頭から離れなかった。

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