平穏への憧れ


 小学3年生の霜月は、家出がしたかった子供です。

 特に両親が怒鳴り合って喧嘩をしている夜は、サンリオのマロンクリームの鞄に、僅かほどのお小遣いと自分の大切なものを詰め込んで、家から抜け出す方法を布団のなかで繰り返し妄想しては、朝を迎えていました。


「目を閉じて深呼吸をして、数を数えたら、あなたの意識は深く深く落ちていく」


 今となっては、何のフレーズかも思い出せない。それでも、当時の自分は信じていて、目を閉じて、眠りに落ちたまま別の世界に行けたらいいと願っていた。


 両親が霜月にしてきたことを全て書くのは、憚られるほどの異常さなので、書きませんと言いたいところですが、断片的で思い出せないのです。幸せな記憶があれば良いけど、酷い仕打ちですら記憶が呼び起せないこともあります。

 そんな生活において、読書だけが唯一の現実逃避であって、市立図書館という子供でも市民権を行使できる場所は、霜月の白と黒の世界で、たったひとつの居場所でした。

 きっと思い出せないだけで、他にも居場所はあったのだと思う。でも、いつの間にか自分の居場所は無くなり、孤立していったように思えます。


 仕方なく両親の発言に従い、従って進んで行ったところで、「お前が悪い」と言われ、右も左も前も後ろも身動きが取れず、反抗したところで後々の対応が煩わしくて、その時に取ることができる最善という名の両親のエゴを実行せざるを得ない日々。


 きっと心が死んでいたので、記憶が無いのでしょう。

 もしくは、今の霜月ではない誰かが身代わりになってくれたのかもしれません。

 今となっては、あの頃の霜月は何を守りたかったのでしょうか。

 自分がわかりません。


 既に壊れてしまった自分の心と湧き上がる何かを深くて冷たく、暗い海底にそっと沈めておくことで、生き延びたわけです。


 今は、霜月の過去を知っている夫と、こんな霜月が育てたとは思えないくらい真っすぐに育っている子と愛犬に囲まれて暮らしています。

 とはいえ、ふと、自分はきちんと自分の人生を自分らしく生きることができているのか、自分は両親と同じ過ちを犯しているのではないだろうかといった考えが脳内を駆け巡り、自分が揺らぐこともあります。


 自分の人生を自分らしく生きたい。平穏に暮らしたい。

 この願いが高望みではなく、当たり前の世界を知りたかった。

 土砂降りの世界で、その曇天を貫ける力があれば、景色が違ったのかもしれない。

 それができたら、飛行機が雲の上を飛ぶように、霜月も飛べたのかもしれないね。


 (2024.06.30)




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