全知のコーリ ナターリア
石造りの校舎では靴音がよく響く。廊下の柱や天井に反響して、長く続く廊下の先へ音が広がっていく。
図書館の扉を押し開けたとき、歴史が見えた。先の戦争で街が燃えたときも、この大学の建物だけは生き残ったらしい。
古びた紙とインク、埃のにおい。
窓から細く差し込む夕日が、褪せた絨毯を温めている。
私は本棚の前に立ち、本の背に指先で触れた。
図書館の記憶を読み取る。
古い街だ。幾度も隣接する国々に襲撃され、積み上げてきたものを薙ぎ倒された。それでも、この国で生きてきた人々がいる。
背後に気配を感じて、振り向いた。眼鏡をかけた男子学生が、数学の棚を見ている。私と目が合った。
少し目を見開いて、彼は小声で言った。
「こんにちは」
地方都市とは発音が違う。私は訛らないように気をつけて発声した。
「こんにちは」
「何かお探しですか? お手伝いしますよ。この図書館に詳しいので」
「大丈夫です。私も詳しいから」
面食らっている男子学生を残して、場所を移動した。
美しい女性の姿をしていると、男性が寄ってくる。リルサンタには性別がないから感覚が掴みづらいが、人間の世界では自然なことである。これを利用するために、わざわざ女性の姿にデザインしてもらった。
人間の場合、男性の方が体が大きく力が強い傾向にある。女性の方が身体能力が低いため、警戒されない。
ハールは男性の体を使うべきだと提案してくれたが、私は弱者として扱われることを経験してみたかった。
フィールドにおいて、ニコラスから全知の力を賜っている私は社会的な強者である。弱いと思われたことがない。
人間界では力の強さが、ものをいう。弱くて若くて美しい女が、戦争が始まろうとしているこの世界で、どう生きるのか。
それを知ることは、疑う心の状況を調査する際に役立つだろう。
図書館にはもう一人、利用者がいた。
弱くて、若くて、美しい。戦争間近の世界で生きている、人間の女性である。
名前を、ナターリアと言った。
図書館の端にある窓際の席に、彼女はいた。ナターリアを初めて見たとき、私はその魂の美しさに見惚れた。それまでに見た人間にはなかった輝きだった。彼女なら、疑う心とは無縁だろう。まるで少女のようにみずみずしく、純真な心をしていた。
胸が痛くて泣きそうになりながら、私は尋ねた。
「あなたはどうして、そんなにも美しいの?」
ナターリアは工学の本から目を離し、私を見た。ハシバミ色と緑色が混ざった瞳に、夕日の赤い色が差し込んでいた。
ナターリアは私の唐突な問いに、少しも驚かなかった。
「あなたが美しい理由を教えてくれたら、私も答える」
「そのように神が私を作ったの」
ハールのことを説明できないので、私はそう答えた。
ナターリアは即座に言った。
「私の神様も、私をこのように作ったの」
ナターリアは席から立ち、私に全身を見せてくれた。
「私はナターリア。工学部。あなたは?」
「私はコーリ。留学生。違う国から来たの」
「いつ?」
「今日。ついさっき」
「こんな時期に?」
この国では九月から新年度が始まる。今は五月だ。
「私の国では四月が区切りなの。でも、色々あって五月になった」
私はスラスラと嘘をついた。私は偽物の人間だ。存在自体が虚構なのだから、何を言っても全てが嘘。正直でいる意味がない。
ナターリアは心が美しいので、何の疑問も抱かなかった。
「そうなんだ。困ったことがあったら、相談して。私は暇な時は、いつもこの席にいるから」
私は彼女の優しさに頼ることにした。
「近くに部屋を借りたいの。お金は持ってきたけれど、どうしたらいいか、わからない」
「学生課で寮を紹介してもらえない?」
「部屋に良い空きがなくて」
「それなら、しばらく私の家に来る? ルームメイトに恋人が出来て引っ越しちゃって、今隣が空いてるの。家賃は半分払ってもらうけど」
「ありがとう。ぜひ、そうしたい」
ナターリアは出口に向かって歩き出した。
「ついてきて。詳しいことは外で話そう」
ナターリアは本当に部屋を貸してくれた。私は総本部に連絡して、ナターリアが通っている国立大学の留学生になった。
日中は大学に通い、夜はさまざまな場所に忍び込み、集めた情報を総本部に報告した。
ある夜、窓から部屋に入った私の前に、ナターリアが立ち塞がった。
「コーリ、毎晩どこへ行ってるの?」
珍しく怒っている。
彼女が怒るのを見るのは初めてだ。私はしどろもどろになった。
「えっと。内緒で、アルバイトをしていて」
「なんのアルバイト? お金がないの? 危ない仕事じゃないでしょうね? もし困っているなら家賃は払わなくてもいいよ、私がなんとかするから」
「ち、違うよ! 家賃くらい払えるから!」
「それなら、どうしてこんな真夜中に働くの!?」
リルサンタは夜に働くものだ。でも、ナターリアには、言えない。
私が黙っていると、彼女は不安そうに唇を触りながら言った。
「アルバイトなんて嘘でしょう。悪い男にひっかかってる?」
「どういうこと? あ、私が人間の男性に惚れて毎晩交尾してると思っている? それはない。私は人間を好きにならないの」
ナターリアは長い前髪を掻き上げた。
「じゃあ、コーリは何を好きになるの?」
「何を? えっ? えぇと」
私は人間を好きにならない。リルサンタだから。人間ではないのだから。
「私は、私は風が好き。この国に初めて来たとき、爽やかで良い香りがして、気持ちが良かった。それから、空をはばたく鳥も好き。川を泳ぐ魚も好きだし、地面を這うトカゲも愛らしくて好き。鉄道も好きだし、図書館も好き。それから、それから、ナータ、あなたも好き」
ナターリアは首をかしげて、人差し指で自分の頬を軽く叩いた。
「コーリ、私は人間だよ?」
「そうだった。私、人間の男は好きにならないけど、あなたは好き」
そうだ。私はナターリアが好きだ。すごく好きだ。
「風より、鳥より、魚より、トカゲより、鉄道より、図書館より、ナータがいちばん好きだ」
ナターリアは目を丸くして、それから大きな声で笑った。
「コーリ! あなたって、変わり者! 私もコーリのこと、大好き! だから夜にひとりで出掛けるのはやめてね。心配だから」
「うん。わかった」
ナターリアが私を心配している気持ちが伝わってきた。私は夜の調査活動をやめ、その時間はナターリアと一緒に過ごすことにした。
大学の講義は面白かった。全知の私には簡単に理解できる内容ばかりだったが、人間界について素人だから、なんだって興味深く感じた。
三限の構造力学では、以前図書館で会った眼鏡の学生と再会した。名前はオレク。講義の後に時々話すようになったが、だんだんと私に好意を抱くようになったので、距離をとることにした。ハールは私を美人に作りすぎたのだ。
オレクは聡明で性格も良かった。いつもチェック模様のシャツを着ていることを除けば、外見だって悪くない。(なぜか工学部の男子学生の多くがチェック模様のシャツを着ている。この現象の理由は全知の私にもわかりかねる)
オレクと距離を取るにあたって、二人きりで会うのを避けたため、自然とナターリアを加えた三人で話すことが増えた。
ナターリアとオレクは相性が良さそうだった。ふたりの中に芽生えた感情が育つよう、私は熱心に支援した。
ナターリアを心から好きだった。けれど、ずっと一緒には、いられない。
調査が終わり次第、人間界を離れなければならなかった。
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