第26話:――きっと満足できる





 ――闇。一瞬のめまいの後、コナーはそこにいた。


「――ッ!? な、なんだ!?」


 足元から伝わってくるのは木の感触。まるで舞台上だ。ここは……どこだ?


「よく分からないけど、君は人の心の中に土足で入ってくるんだ。困るなあ」


 突然、頭上で音がした。それと同時に、一筋のスポットライトが椅子に座って足を組むジョンを照らし出した。


「なぜお前は平気なんだ!? お前は……」


 何が起きている? コナーは必死に自分の異能を思い出す。接触することによって人間の心中を操作する異能。確かに、強く相手の心の中を知ろうとした時、心象風景の中に入り込むことがあった。でも、イニシアチブはこちらにあったし、触れた相手が意志の疎通をしてくることなんてなかった。


「別に? スタンスの違いだよ。君は自分の満足を無視して他人の顔色ばかりうかがってるけど……つまらなくない? そんな生き方」

「な、何を言ってるんだ?」

「いや、ほら。君は僕に一作も発表してないやる気のないアーティストだって言ってたからさ。一応、僕の作品をここで見てもらおうと思って、君にわざわざ合わせてあげたんだ」


 コナーはぞっとした。目の前の青年が心底恐ろしい。自分の精神の深層に、明晰な意識のままで気軽に入ってくるのだ。人間ではあり得ない。何よりも恐ろしいのは――自分とジョンは会話しているようで会話していない。言葉が通じるのに言いたいことが伝わってこない。狂人の思考に今自分が晒されていることを知り、コナーは震えだす。


 そしてようやく気づいた。血の臭いがする。それもむせ返るほどの濃い臭いだ。空気そのものが赤く染まるほどの血の臭いが、舞台に立ちこめている。そして肉の臭いもする。新鮮な引き裂かれた肉の臭い。吐き気がこみ上げてくる。それなのに、ジョン・ドウはまるで母の腕に抱かれた幼子のように、居心地が良さそうな笑みを浮かべたままだ。


 舞台の闇が徐々に明るくなってきた。足元の床にだらだらと血が流れていく。


「アプローチの方向性が正反対なんだよ。僕も心に興味がある。だからその外面――他人の血と肉と骨と臓物と神経とその他諸々に余すところなく触れる活動を通じて、どうすれば自己の有り様を解釈できるのか。ずっと考えているんだ」


 一気にスポットライトが点灯した。


「君に見せてあげよう。僕の思索の道程を」


 明るく照らし出された舞台に並んでいる「それ」を直視し、ロバート・コナーの平凡でちっぽけな精神はあっさりと屈服した。悲鳴さえ上がらなかった。これはあくまでも現実ではなく、ジョン・ドウの心象風景である。だが――心象風景とはすなわち、彼が追い求めて止まない欲望の純粋な表現なのだった。





「あ~あ、やっぱりだめだよ、メアリー」


 ジョンの殺人嗜好そのものを直視して一時的な廃人になったコナーを見て、ジョンは大げさにそう言う。舞台に並んだそれに愛しげに手を伸ばす。ジョンにとって、これこそ人間のありのままの形だ。でもこれは過程でしかない。言わば学者が自説を書き綴ったノートだ。自己に至るまでの練習台と言えよう。


「ああメアリー。君はこれを見てどんな反応をするんだい? 知りたい、ぜひ知りたいよ。君の表情、息づかい、心音、すべてを余すところなく観察すれば僕は――」


 ジョンは想像する。今この心象風景にあるものを現実で実現した時のメアリーを。全身を貫く甘美な刺激にジョンは吐息をもらした。最上の美食を口にした美食家のように。


「――きっと満足できる」


 しかし、シリアルキラーの身勝手な空想はそこに留まらなかった。


「いや、違う……」


 ジョンの目が喜悦で歪む。


「君を思索の過程としてここに並べたら――もっとずっと心から満足できる」


 その瞬間、確かにジョンは予感した。ずっとずっと追い求めている至福の片鱗を五感で感じた。口元が勝手に笑みに変わる。


「あはっ! あははっ! あははははっ!」


 亀裂のような笑みのまま、ジョンは笑い続けた。


「そうだ、その方がずっといい! メアリー! メアリーメアリーメアリー! 喜んでくれ! 君のおかげで僕はようやく自己の真髄にたどり着く方法が分かってきたよ!」


 歪み、濁り、腐りきった愛情に溢れた笑い声が、いつまでも舞台に響いていた。





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