4.弱り目に祟り目、そして泣きっ面
その日、タクヤは最新話を描き終え、ファイルを上げて鏑木に連絡のメールを送った。切りのいいところまでと思って続けた作業が終わるころには、16時近くになっていた。
ひと仕事終えた緊張からの解放とともに、空腹がやって来た。タクヤはスマホとエコバッグを持って、遅すぎる昼食を買いに部屋を出た。
外は春の陽気だった。大学特有の長い春休みに入ってからというもの、近所のスーパーへ毎日2回、昼と夜の食事のために買い物へ行くのが習慣になっていたが、その時にだけ季節の移り変わりを感じることができた。
買い物かごを取り、珍しく入り口付近から野菜や肉などの生鮮食品を見て回る。
「たまには自炊しないといけないんだけど・・・」
タクヤはそんなことを小声で言いながらも、結局そこでは何も買い物かごに入れなかった。
店の奥へと歩いて行き、ペットボトル飲料を選び、総菜コーナーへ向かった。千切りキャベツ中心のサラダと和風ドレッシングの小袋、鮭のおにぎりを取り、揚げ物の棚からはメンチカツを2つ、トングでパックに乗せて輪ゴムで止めた。
セルフレジのない店舗でレジ待ちをしていると、店内にいた客の何人かがざわざわと外へ出ていった。ほどなくして消防車がサイレンを鳴らしてスーパーの前を走っていき、すぐにプツっと音が消えた。
火事だ。しかもずいぶん近いな。そんなことを思いながらタクヤは会計を済ませ、買い物かごから手持ちのエコバッグに荷物を詰め替えて店を出た。すると民家の間で火の手が上がっているのが見えた。
「!?」
タクヤは慌てて駆けだした。どう見ても自分のアパートだった。
すぐにアパートの近くまで来たが、周囲は人だかりや消防車などでごった返していた。タクヤは潜り込むように人々の間を通り抜けて進み、どうにかこうにかアパートの正面まで進み出た。
しかしタクヤには、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。リノベーションされて新築のようだったアパートは、炎の中で木造の柱を露見させていた。火の回りが早く、既に始まっていた放水は、延焼を防ぐことに重きが置かれていた。
「君ぃ!危ないから離れなさい!」
消防士のひとりがタクヤに気付き、大声で怒鳴った。はっと我に返ったタクヤは群衆の方を振り向き、すいませんすいませんと言いながら、人垣を掻き分けてその場を退散した。
タクヤは少し離れたところで、電柱に寄り掛かるようにしてアパートが燃えていく様子を眺めていた。続きを描かないといけないのにと思いつつ、もう異世界へ行けないのにそんなことができるだろうかと青ざめもした。
タクヤが感情を整理できないまま見つめる先で、やがて炎は小さくなっていった。燃えるものがなくなり、アパートの上階部分が崩れ落ち、タクヤのいる場所からはほとんど火事の様子を窺い知ることができなくなった。見ている人の数は徐々に減り始めていた。
それでもタクヤが動けずにいると、電話がかかって来た。突然の振動に飛び上がらんばかりだったが、スマホを取り出し相手を確認する。母親だった。
「もしもし?」
「うん」
「よかった、火事だって不動産屋さんから今、連絡があってね。もう心配で・・・」
「大丈夫。たまたま買い物で外に出てて」
母親の勢いに辟易しながら返した自分の言葉に、タクヤは苛立ちを覚えた。大丈夫なわけがない。全部燃えてしまったのに。
「ホテルはもう取った?」
「ホテル?」
「急ぐ必要はないと思うけど、平日だし。でも今日泊るところは早く決めた方がいいでしょ」
タクヤは再びアパートのあった方へ目をやった。まばらになった人の間から、建物の残骸が見えた。漫画のことしか考えていなかったタクヤは、このままでは寝る場所もないという状況に心が寒くなる思いがした。
「そうだね、そうする」
「今からこっちに戻ってきてもいいんだけどね。でもちょっとそっちで落ち着いた方がいいでしょ?」
「うん、すぐには無理かな」
戻る?母親が何を言っているのか、タクヤには理解できなかった。もちろん実家に帰ってこいと言ったのは分かる。だがなぜ今、何のためにそうしろと言っているのか分からず、さっきとは別の苛立ちを感じた。
「じゃあ今日はホテルにね、はやく予約して。こっちから行った方がいいなら言ってね」
「わかった」
「何かあったら電話して」
「うん、じゃあ」
「はい、じゃあね」
電話が切れた。タクヤは無性にものに当たりたくなった。手に持ったスマホを壁に投げつければ気分が晴れるかもしれないと思ったが、そんなことをしたらいよいよ野宿になってしまうのでやめにした。
タクヤは母親に言われた通り、スマホで近くのホテルを探した。空き状況より料金の方が気になった。しかし春休みシーズンではあったが平日だからか、さほど高くはなさそうだった。どのホテルもそれなりに空きがあった。一番安い部屋は最寄り駅をまたいだ先にあったが、それより少し高いものの、アパートのあった場所から近いビジネスホテルを選び、その場で予約した。
ホテルにチェックインしたタクヤは、ベッド脇にある椅子に腰かけ、エコバッグの中からペットボトル飲料を取り出して飲んだ。そして、壁沿いの長テーブルにスマホと買ったメンチカツなどを取り出して置いた。エコバッグの中には、普段なら断るはずの
あまり食欲はなかったが、食べ始めると黙々と箸を動かし、鮭おにぎりのフィルムを外して口に運んだ。すべて食べ終えると、タクヤはそれらの容器や箸をゴミ箱に捨てようとした。しかし少し考えてから、まとめてエコバッグの中に入れて、そっとゴミ箱の中に置いた。
タクヤは立ち上がると、陽が沈みかかった小さな窓のから外を見た。ホテル10階の部屋から見えたのは、ごちゃごちゃに配置された大小さまざまな建物と、薄雲りの空だけだった。タクヤは初めて異世界に行ったときに見た、夕陽に包まれた街を思い出した。もうそこへは行けないのだと改めて感じると同時に、この先どうすればよいのかという不安に押しつぶされそうになった。
しばらく窓の外に視線を向けたままでいると、スマホの振動が聞こえた。
鏑木からだった。
タクヤに緊張が走った。なんだろう。このタイミングで電話をしてくる理由はないはずだ。まさか火事のことを知ったということはあるまい。そんなことを考えながら机の上で何度も踊るスマホを見つめていた。
漫画の連載が難しくなったと言わなければならない。できるなら休載、最悪打ち切りとなっても仕方がない。異世界のことは言えないが、火事の話をすれば多少なりとも時間をくれるかもしれない。
今を逃したらそのまま音信不通にしてしまいそうな気がした。まともに話せるかどうか分からないが、出るしかないとタクヤは意を決した。スマホを取り、通話のボタンに触れた。
「今、大丈夫か」
「はい」
どう考えても大丈夫ではなかったが、ひとまず話を聞くしかない。そのあと自分の話をしよう。タクヤは椅子に座り、鏑木の要件を待った。
「連載してる漫画は盗作ということでいいか?」
タクヤは言葉を失った。不思議なことに、これまで異世界の本を漫画にしていることに何の疑問も持っていなかった。このとき初めて、自分以外の誰かが書いたものを漫画にしているのだと、明確に認識した。そのことはタクヤに大きな衝撃を与えた。自分で考えたものを描くのが漫画家なのだという自意識を、気付かないうちに自ら裏切っていた。
しかし、それは今考えることではなかった。
「もしもし、聞いてるか。どうなんだ。やったにしろやってないにしろ、こちらとしては何かしらアナウンスしないといけないんだ」
黙ったままのタクヤに、鏑木は追い込みをかける。
そうだ。今は盗作したのかを答えなくてはならない。盗作?どういうことだ?異世界の本の話を勝手に漫画にしたことが鏑木にバレたのか?異世界で行ったことと現実がリンクしているようで、タクヤはパニックになった。それでも何か言わないといけない。鏑木ははっきりと盗作だと言ったのだ。それだけの証拠があるに違いない。後ろ暗いことをしたという自覚も湧いてきている。認めるしかなのだろう。タクヤは必死に声を絞り出した。
「・・・やりました」
「そうか」
メモを取る、あのカリカリ音が聞こえた。少し黙ったあと、鏑木は言葉を続けた。
「やってしまったことは仕方ない。
タクヤはSNSはやってなかったよな」
「はい」
「だったらこの件については何もしなくていい。こちらで謝罪文を出しておく。ひとまず連載は中断だ。それじゃ、なにかあったらまた連絡する」
鏑木がそう言うと電話が切れた。
30分もしないうちに、タクヤが連載していた漫画アプリのSNS公式アカウントに謝罪文が掲載された。それを引用する形でネットニュースにもなった。しかし、タクヤがそれらを見ることはなかった。
電話のあと、タクヤは膝の上でスマホを両手で持ち、ぼんやりとを見つめていた。やがてスマホの画面が暗くなり消灯した。それでもタクヤは動かなかった。
何から考えていいか分からなかった。
アパートが燃えた。
異世界へ行けなくなった。
盗作を認めた。
口の周りが小刻みに震えているのがタクヤには分かった。片手にスマホを持ったまま、目から溢れ出る涙を何度も手の甲で拭った。そのうち流れた涙が肘へ
連載は中断だと鏑木は言ったが、きっとこのまま打ち切られるだろうとタクヤは思った。それは半ば自分が望んでいたことでもあったが、状況が違いすぎた。もう連載はおろか、どんな機会も与えられないだろう。二度と這い上がることのできない暗闇に落ちてしまったも同然だ。
ひとしきり泣いた後、タクヤは母親に電話した。
「ごめん、今いい?」
「うん、大丈夫」
「明日そっちに帰るよ」
「そう。新幹線に乗ったらメールして」
「わかった」
短い会話でタクヤは実家に戻ることを伝えた。
関係が悪いわけではなかったが、タクヤは母親に居心地の悪さを感じることがあった。子どものころから絵のうまさを褒められたが、いつもどうしていいか分からなかった。漫画で賞をもらった時も最初は黙っていた。賞金の振り込みの段になって仕方なく話した。そのときの母親の喜びようは、タクヤにとって気分のいいものではなかった。
大学行きを強く勧めたのも母親だった。退路を断つために受検しないことも考えていたタクヤだったが、漫画家としての先行きが暗いこともあり、4年の猶予をもらったつもりで進学した。
夏休みに帰省したときには、大学や街の様子を聞かれた。休みの日は部屋にいることが多いと分かると、せっかく上京したんだから外へ出ていろんなことを経験しないとと忠告された。そのひとつひとつが煩わしかった。年末年始もメールでただ帰らないとだけ伝えた。漫画の連載のことは言わなかった。
しかし、実家に帰ることにした。
タクヤはベッドに横たわった。少しの間、眠るためには目を閉じなければいけないことも分からなくなったように天井を見ていたが、やがて目を瞑った。
朝起きると、口の中が気持ち悪かった。寝る前に歯磨きをしていなかったことをタクヤは思い出した。ベッドから起きると、小上がりになっているユニットバスタイプの洗面所へ行き、アメニティを使って歯を磨いた。
そのあとにはシャワーを浴びた。着替えは無いので、脱いだ服を同じように着た。少しの間脱いでいただけなのに、粘っこい湿気が体に絡みつくようだった。
ユニットバスを出ると、長テーブルの端に置かれた朝食バイキングのチケットに目が留まった。午前7時から10時までと書いてあった。スマホで時刻を確認すると、既に10時を過ぎていた。タクヤはそのチケットをゴミ箱に捨てたエコバッグの中に入れた。
スマホで新幹線のチケットを購入し、連携していたICカードで入場してホームへの階段を上った。既に止まっている新幹線に沿って自由席の車両まで歩き、そのまま乗り込んだ。席はそれなりに埋まっていた。タクヤは3人掛けの通路側に座った。
タクヤは新幹線の発車時刻をもとに、スマホで実家の最寄り駅への到着時刻を調べた。最寄り駅と言っても実家からは車で数十分のところにあるため、迎えに来てもらう時間を伝える必要があった。そのメールを母親宛に打っている間に発車ベルが鳴り、新幹線はゆっくりとホームを出発した。母親からの返事はすぐに来た。それを確認したタクヤは背をシートにあずけた。
新幹線が高速運転に入ったころ、タクヤは頭の中で状況を整理しだした。
自分が他人の書いた本を勝手に漫画にしたのはその通りだ。だが、あれは異世界に存在するものだ。鏑木はあの本を指して盗作と言ったわけではないはずだ。とすると、別の場所にも異世界に通じる穴があり、誰かがタクヤより先にあの本の内容を覚えて帰り、自分のものとして発表していたということだろうか?
そういえば、あの本が棚にないことがあった。ひょっとしたら盗作を訴えた相手が借りていたのかもしれない。いや、本人が盗作を訴えたとは限らない。誰かが両方を読んで、発表の古い方を新しい方が盗作したと騒いだとも考えられる。しかし、自分を訴えたのが本人かどうかは問題ではない。相手も異世界から話を盗んだというのに、なぜ自分だけが批判の目に晒されているのかだ。
タクヤは不意に沸き上がった怒りに任せて、相手について調べようとした。しかし、インターネットブラウザを開いて検索窓をタップしたところで手を止めた。
相手について調べることは、自分の盗作について調べることだったからだ。タクヤは昨日から、自分に対する批判を見ることなく過ごしてきた。SNSを使っていないので通知を目にすることもなかった。だが今は、それを率先して見にいこうとしていた。それは針の筵に自ら飛び込むということだ。
タクヤはスマホの下部に出たキーボードの上で親指を浮かせたまま固まっていたが、結局、下から上にスワイプしてホーム画面に戻した。
相手について調べたところで、自分を正当化することにはならないと考え直した。それに、もし相手がこれ見よがしに自分の漫画をあげつらい、非を訴えていたとしたらと、考えただけで気分が悪くなった。電池の残量が少なくなっていたこともあり、タクヤはスマホの電源をオフにした。
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