3.疎遠になっていた人と電話をするのは緊張する

 ない。あの本がない。

 異世界は逃げないが、まさか本が逃げるとは。


 棚の他の場所も探してみたが、やはりなかった。ということは、この中にいる誰かが読んでいるのだろうと、タクヤは座って本を読んでいる人々を見渡した。近くにそれらしい本を読んでいる人はいなかった。しかし、いたところで譲ってもらえるわけでもないだろうと、他の本を物色してみることにした。


 手ごろな本を引き出してはページをパラパラめくって戻すを繰り返してみるものの、タクヤが惹かれる話は見つからない。あの本のことが気になって集中できないことを割り引いても、他の本の内容が軒並み陳腐であることは否めなかった。


 何冊目かの本を棚に戻しながら、ふと嫌な考えが浮んだ。それは普段なら第一に想定すること。本が借りられている可能性だ。別の世界から来ている身であることに加え、自分の書いたメモすら読めなくなったので、タクヤは本を借りて持ち帰ることを頭から除外してしまっていた。しかし、この世界の住人であれば大いにあり得る話だ。


 借りられていたとしても、どうか貸し出しの期間が長くありませんように、と願いながら、タクヤは今日も入り口のカウンターにいる司書さんに聞きに行った。


「本の貸し出しはしていません」


 意外ではあったが、長期間あの本が読めなくなることがないと分かり、タクヤは胸をなでおろした。しかし訝しげな司書さんの目に気付くと、


「あ、分かりました、ありがとうございました」


と、逃げるように引き下がった。


 これだけ立派な図書館であっても本の量が多くないのは、それだけこの世界では本が貴重なのだろう。だから外へ持ち出せないのだ、とタクヤは結論付けた。そして本を盗む者がいたのなら、きっと司書さんが魔法で蜂の巣にするのだろうと想像した。


 あの本が建物内で利用されていることは分かったものの、棚に戻ってくる気配はなかった。粘るのはやめて、この日は早めに帰ることにした。翌日、図書館へと舞い戻ってみると、果たしてあの本は棚のいつもの場所に収まっていた。見つけたときには喜びのあまり不思議な踊りを踊り出さんばかりであったが、近くにいた魔法使いのMPを下げてしまうかもしれないのでやめておいた。


 その後タクヤは、部屋にいて起きている時間のほとんどを漫画の制作に注ぎ込んだ。ネームまでは図書館でやってしまおうかとも思ったがやめにした。デジタルでの作業に慣れていたこともあるが、なにより奇異の目で見られて図書館を訪れることが躊躇ためらわれるようになるのは避けたかった。もちろんセリフが書けない問題もある。


 描く場所の内容を記憶し、こそこそと簡単な絵をメモ帳に描きしては、自室に戻ってネームに落としこんでいった。あまり頻繁に出入りすると司書さんにまた不審の目を向けられそうなので、異世界は1日1回に制限した。一度だけ、どうしてもすぐに確認したいことがあり2回図書館に行ってしまったが、運よく司書さんがカウンターにいなかったので、ささっと見たいページを見てそそくさと退散した。そこまで司書さんの目を気にする必要があるのか?とタクヤは自分でも思った。


 そんな事情もあり、ネームが終わる前に下書きやペン入れもしつつ作業を進めた。切りのいいところまでネームを描いてしまうと異世界を訪れる回数は減ったが、行き詰まると気分転換を兼ねて出かけ、あの本を読み返したり、街を散策して漫画に使えそうな光景を目に焼き付けたりした。



 異世界を初めて訪れてから1か月近くが経った。長すぎる残暑が終わりようやく秋めいてきたかと思えば、一足飛びに冬の気配が流れ込もうとしていた。


 タクヤは担当編集者の鏑木かぶらぎに、描いた漫画を送ることにした。序盤の区切りまでとはいえ、50ページを超える量になった。あの本の雰囲気や迫力をそのまま伝えねばと、ネームの状態ではなくきっちり仕上げたが、描いたものをモニター上で見返しながら、この短期間でよく出来たものだと大きな満足と妙な呆れを感じた。


 メールを打ちながらタクヤは、過去の漫画に対する鏑木の指摘を思い出した。威圧的ではないが、大小どの指摘も返す言葉がないほど的確だった。提出したネームに対して毎回送られてくるメールを読み進めると、タクヤはモニターの前でどんどん小さくなっていったものだった。


 また山ほど指摘が来るのだろうか、と思うとメールを打つ手も止まりかけたが、今回はいままでとは違うのだと一気に文章を書いて送信した。勢いでメールを送った後に、まだ漫画をアップロードしていなかったことに気付き、慌てて鏑木から教えられていたURLへアクセスしてファイルを上げた。


「ふぅ」


 タクヤは一つ大きく息を吐いた。充足感はあったが、同時に飢餓感も感じていた。最初の目処まで描き切りはしたが、このあといよいよ物語が本格化する。登場人物たちの躍動を漫画の中で表現せねばと、熱が冷めることはなかった。


 しかしオーバーワーク気味だったことも事実で、ちょうど日曜だった翌日は完全な休息日にした。久しぶりにしっかりと睡眠をとった後、タクヤは冬用の掛け布団を買いに出かけた。ネットで買ってもよかったが、家にいてはそわそわと落ち着かなかった。


 駅前にある、生鮮食品から衣類まで売っている店に入った。入り口では自転車を売っていた。来るたびに、なぜ入り口で売っているのだろうと不思議に思うのだが、今回もまた同じことを考えながら自転車の間を通って奥へと進んだ。


 タクヤはその店に布団のコーナーがあることも覚えていたので、見に行くことにしたのだ。結果、欲しかった軽くて暖かそうな羽毛布団が、予想より安い値段で売っていた。思わずお得な買い物ができたのは良かったが、あっさりと目的を果たしてしまった。布団を持ちながら他の場所を見て回るのも変な気がしたので、タクヤは当てが外れたと思いながら帰った。その後は部屋で落ち着かない時間を過ごし、休むつもりがかえって疲れたような気がした。



 鏑木から電話があったのは、それから3日後のことだった。2限目の講義中だったため、折り返し連絡するとだけメールしたが、気が気でなかった。

 電話をもらうのはこれが2度目だった。1度目は鏑木が担当に着いた時で、そのときに簡単な挨拶をして、今後の連絡はメールでと言われた。


 そんな鏑木から電話があったのだから、期待するなという方が無理だった。講師の話を聞いていても電話のことばかりが気になる。結局タクヤは講義の残り時間が少なくなってきたタイミングで切り上げ、外へ出ることにした。


 キャンパスの建物間の通りを歩く学生たちを見やりながら、タクヤはあまり人気のない場所のベンチを選んで腰かけた。そしてスマホを出し、着信履歴の鏑木の名前をじっと見つめた。なかなか電話できないでいると、どこかの教室で少し早く講義が終わったのか、ガヤガヤと学生の一団が建物から出てきた。昼休みに入ってこれ以上騒がしくなる前にと、タクヤはスマホをタップして電話をかけた。


 鏑木はすぐに出た。以前と声の印象が違うような気もしたが、3年も経っているのだ、自分の声の印象の方がもっと変わっているかもしれないと、妙な冷静さでタクヤは考えた。


「すいません。講義中だったので」

「いや、いいんだ。進学したのか」

「あ、ええ、はい。今年から都内の大学に」


 タクヤは慌てて説明した。鏑木との連絡が途絶えていたので、そんなことも伝えていなかったと焦った。


「そうか。今は昼休憩中か?」

「はい」


 わざわざ講義を抜け出してきたことを説明する必要はないと、タクヤは肯定した。


「じゃあ手短に話すが」


 鏑木はそこで一呼吸置いた。タクヤは耳が脈打っているのではないかと思うくらい、心臓の鼓動が大きく聞こえる気がした。


「あの漫画、ウチのアプリで連載しようと思うんだ」


 連載。その言葉にさらに心音が大きく聞こえ出し、呼吸は浅くなり、胸は苦しくなった。しかし、アプリという言葉に意外さも感じた。タクヤの胸中では喜びと混乱が渦巻いていた。


「聞こえてるか?」

「はい・・・ちょっと、あの・・・あまりのことで驚いてしまって・・・」


 タクヤが口ごもりながらもどうにか答えると、鏑木は電話口の向こうで少し笑ったようだった。


「そんなことはないだろ。描いていて手ごたえがあったはずだ」

「まあ・・・それはそうなんですが・・・」


 そう、手ごたえがあったのだ。だからこそ、タクヤは期待を裏切られたような気すらしていた。聞かないわけにはいかないと、タクヤは恐る恐る口を開いた。


「あの、本誌に載せられる可能性というのは・・・」


 しかし鏑木は、それを予想していたかのように説明を始める。


「なくはないが、決定までに時間がかかるし制約も多いからな。アプリ連載だからと言って不利な部分はないし、自由に描けるからそちらを選ぶ若手も増えてきている。俺もこの出来ならタクヤの好きに描いてもらった方がいいと思うんだが、どうする」


「あ、分かりました。アプリの方でお願いします」


 タクヤに選択肢はなかった。整然と言葉を並べられ、ダメ出しのメールを読んだときのように消え入りそうになり、すぐに返事をした。鏑木はメモでも書いているのか、カリカリと速く小さく叩きつける音が何度も聞こえた。


「あとは、ペンネームか」

「ペンネームですか・・・」


 意外な角度からの話題に、タクヤはオウム返しした。


「タクヤは今まで付けてなかったからな。考えておいてくれ」


 ペンネームは以前に何度も思案したものの、いつもしっくりくる名前を思いつくことができなかった。それに、好きな漫画家が本名で描いているというのもあった。


「・・・ペンネームにしないとダメですかね」

「ダメではないが、勧めはしないな。プライバシーの問題もある」

「なんかこう、ペンネームだと自分という感じがしなくてですね。別に悪いことをしているわけでもないですし・・・」


 鏑木の返事を待ったが、何も返ってこなかった。メモを書いている様子もなく無音が続いた。タクヤは何か気分を害することでも言ったのかと、不安になった。


「あの・・・」

「分かった。本名で出すことにしよう」


 さっきまでと変わらぬ調子で鏑木はそう言うと、今度はメモを取っているようで、話が途切れたもののカリカリ音が聞こえた。


「それじゃスケジュールなんかは、また追ってメールする。何か今、聞いておきたいことはあるか?」

「いえ、大丈夫です」

「分かった。よろしく頼む」


 電話が切れた。耳元から離したスマホには、通話時間が3分42秒と出ていた。5分にも満たない電話だったが、どっと疲れた。タクヤはスマホを持ったまま空を仰いだ。昼休みに入り多くの学生が外へ出てこようとしていたが、それらの騒音は水の中のようにぼやけて聞こえた。


 連載だ。しかし、こうもあっさり決まるのかという驚きと喜びが去ると、漠然とした不安が影を落としてきた。タクヤは、何も心配することはない、今までのように描き続けるだけだと気を引き締めた。



「へぇー、やったな。これで辛島先生じゃん」


 昼食を取りながら連載の話をすると、コウタはそう言って最後に残った一切れのとんかつを口に運んだ。今日は自分のおごりだからとタクヤが奮発して、コウタをちょっといいチェーン店のとんかつ屋に連れてきていた。


「なんか気味悪いから嫌だったんだけどさ。まあ変な話じゃないだろうとは思ったけど」


 タクヤも自分でこんなことをするタイプだとは思っていなかった。

 ただ、いざとなると連載のことをなかなか言い出せず、食事の最後になってしまった。


「それで、大学はどうするんだ?休学とか?」

「いや、通うよ。この1か月できてたんだから大丈夫だと思う」


 タクヤは鏑木からメールでアシスタントを雇うよう勧められたが、それも断っていた。


「そっかぁ。

 でもすごいよな。うん、すごいよ。そりゃ、とんかつも奢りたくなるよな」


 コウタは妙な納得の仕方をしていた。

 タクヤはコウタを待たせて会計をした。金額は3日分の食費を超えていた。いや、そもそもこれは仕送りの金だ。ちゃんと稼いで埋め合わせ以上のことをしないととタクヤは考えた。


「年末は帰るんだろ?」


 店を出て引き戸を閉めながら、コウタは聞いた。


「うーん、たぶん帰らないかなぁ」

「そうなのか?まあ、気が変わったら教えてくれよ。向こうで初詣でも行こうぜ」

「ああ、わかった」


 2人はキャンパス内まで歩く間に、また出されたレポートの進み具合や、共通して取っていない講義についての他愛ない話をした。


「今日はありがとな。あんまり無理すんなよ」

「うん、じゃあ」


 互いに手を挙げて別れると、それぞれ次の講義の行われる建物へ向かった。



 タクヤは連載のために漫画を描き続けた。本の内容を覚えてくるコツをつかんだのか、1回異世界へ行って描けるネームの量は増えていった。ブランク明け当初より、作業のスピードも上がった。おかげで体に無理させることなく、漫画を仕上げられるようになった。


 異世界を訪れると毎回のように階段の上から街を一望した。街の様子などは見なくても描ける資料のように頭の中に入っていたが、そこからの眺めは楽しいながらも過酷な作業を一時忘れ、高すぎる集中力でささくれ立った心を和やかにしてくれた。


 タクヤは1話分描き上げるごとにクラウドストレージへアップロードし、鏑木に連絡を入れた。それを受けた鏑木からのメールでは、キャラクターの見せ方などについて指摘が入ったが、電話で好きに描いていいと言われた通り、ストーリーなどへの口出しはなかった。


 またあるときには、日程に余裕があるので入稿を急ぐ必要はないと伝えられた。それでもタクヤは、漫画が仕上がったそばから鏑木に送った。描いたまま自分の手元に置いておくと、なんだかそれが腐食していくような気がした。タクヤは、描け次第クラウドに上げるが、見るのは時間があるときで構わない旨を返信しておいた。



 年末、当然のようにタクヤは帰省しなかった。コウタには共通で取っていた講義の、年末最後の回にそう伝えた。実家が恋しいという感覚はなかったし、一度帰ってしまうと漫画を描けなくなりそうで不安だった。


 冬休みに入ってからというもの、作業をしていると時折、部屋の外でゴロゴロとスーツケースを引く音が聞こえた。

 元日にはコウタから、初詣の写真がメールで送られてきた。タクヤは簡単に年始の挨拶を返した。その日もタクヤは変わらず漫画を描いた。


 年が明けてしばらくすると、漫画アプリ上でタクヤの連載が始まった。鏑木から自分の漫画が評判になっていると知らされたが、あまり気にしなかった。漫画アプリはインストールすらしていなかった。不人気で連載が終わってしまうと困るが、読んでくれる人がいて描き続けることができるのであれば、それ以上望むことはなかった。


 タクヤは自分が本から受け取った感覚を漫画として表現することだけに集中し続けていた。そんな大変ではあるが幸せな時間があっさりと終わりを告げようとは、まったく想像していなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る