2.ご飯を水で洗うのが雑炊、そうでないものはおじやらしい

 そんな寝方をしてしまえば、起きようと思っていた時間に目が覚めるはずもない。このときのタクヤも例外ではなかった。


 目を覚ますとしばらく寝ぼけていたが、不意に我に返って飛び起き、机の上に置いたままだったスマホを掴んだ。既に10時を過ぎていた。


「まずいっ」


 急いで出れば、2限目の講義に少し遅刻するくらいで済むはずだ。幸いこの日の1限目に講義は入っていなかった。

 何もなければ2限目は自主休講にしてしまいたいとも思ったが、レポートの提出がある。異世界へ行く前にちょうど仕上ったあのレポートだ。


 課題発表の際、通常であればメール送信で済むところを、『レポートは講義の際に紙での提出とする』という面倒なお達しがなされていた。そしてレポートが提出されなければ単位の取得は期待できないという、脅し文句のおまけ付きだった。プリンターを持たないタクヤは、印刷するのにわずかとはいえ金がかかるし面倒だなと思ったが、まさかその提出自体が危ぶまれることになろうとは考えもしなかった。


 筋肉痛で足や腰が痛んだが、そんなことは言っていられない。ノートパソコンの電源を入れ、その間に前日の講義で使った本やノートを鞄から出し、この日必要なものを詰め込んだ。パソコンがまだ立ち上がらないので、上着と靴下だけ着替えた。そして課題のレポートのファイルをUSBメモリにコピーし、パソコンの電源を落として部屋を出た。


 幸いコンビニでの印刷や電車での移動はスムーズだった。すでに2限目の開始時刻を過ぎていたが、タクヤは駅から教室へと走った。講義終わりにレポートを回収してくれれば助かるがと思っていると、まだドアの空いている教室が騒がしい。どうやら、ちょうどレポートを提出するために学生たちが動いているようだった。


 タクヤは安堵しつつもラストスパートで教室へ駆け込み、電車のなかでホチキス止めをしたレポートを他の学生たちに混じって差し出した。教授は今タクヤが外から入ってきたところを見ていたが、特に何も言わなかった。


 学生たちが全員席に着くと教授はドアを閉め、講義を始めた。タクヤは教室の後方の席に空きを探したが、後方どころかほとんどの席が埋まっていた。同じ講義を取っている友人のコウタを見つけたが、その隣には知らない学生が座っていた。席を取っておいて欲しかったが、今日のような混雑する日に無理は言えないかと思った。

 タクヤは仕方なく最前列に座ることにした。教授の目の前ということで眠らないことに集中したため、講義の内容はあまり頭に入ってこなかった。



「寝坊か?珍しいな」


 講義が終わると、コウタはタクヤのもとへ近づいてきた。

 苫米地とまべちコウタ。タクヤとは高校からの仲で、3年とも同じクラスだった。

 もともと人付き合いのよくなかったタクヤは、漫画を描き始めてからはそれに輪をかけて同級生らと疎遠になった。SNSやチャットアプリを頑なに使わないのは決定的だった。それでもコウタとだけは、ことあるごとによく話した。漫画のことについても話せる唯一の相手だった。


 ただ、異世界へ行っていたとは、さすがにコウタ相手でも言うことは憚られた。


「まあ、ちょっと」


 タクヤは言葉をにごした。

 一瞬、怪訝けげんな表情を見せたコウタだったが、それ以上追及するようなことはなかった。相手が嫌がりそうなところに深入りしないのは、コウタはいいところだ。


「昼飯どうする?」


 問われたタクヤは思案して、「学食でいいか?」と返した。今日のところはガッツリ系の多い大学近くの定食屋は避けたかった。


「ああ、行こっか」


 荷物をまとめたタクヤが立ち上がると、2人は教室を出て学食へと向かった。



 タクヤはあまり食欲がなかったので、学食のカウンターでニラ玉雑炊を注文した。待っている間にショーケースの引き戸を開けて、サラダを取り出しトレーに乗せた。コウタは別のカウンターで担々麺を頼んでいた。


 先にタクヤの方が会計を済ませた。レジのそばに置いてあったドレッシングの中から和風のものを選んでサラダにかけ、適当なテーブル席を選んで座った。昼時ではあったものの、さほど混んではいなかった。


 ほどなくしてコウタがやってきて向かいに座った。しばらくはお互い無言で食事をした。タクヤはコウタが麺をすする音を聞きながらレンゲで雑炊を口に運び、ときどきサラダをつまんだ。


「そういえば昨日の地震、大丈夫だったか?結構揺れただろ」


 沈黙を破ったのはコウタだった。しかしタクヤの反応は鈍かった。


「地震・・・」

「あれ?気付かなかったか?だいぶ揺れたと思うけど」

「あ、いや、そうだそうだ。うん、揺れたよ。ちょうど立ち上がろうとしてたんだけど、地震でふらついて」


 昨日の記憶を辿り、タクヤは地震のときのことを思い出した。そのあとバタンって板が倒れて異世界への穴がコンニチワしたんだよな、と思ったが口にはしなかった。


「そりゃ危なかったな。こっちは何ともなかったんだけどさ、どっかでガラスか何かが割れる音がしたり叫び声がしたりで、うるせーって感じだった」

「あー」


 タクヤは間の抜けた相槌を打ち、自分のアパートでは何か聞こえたりしなかったな、と思い返した。自分の部屋では結構な音がしたわけだが。


「あ、ちょっと待った」


 コウタはレジの向こうにあるカウンターに小走りで向かった。遮るものがないので、タクヤの席からコウタの様子がよく見えた。


 タクヤは異世界への穴のことを思い出していた。そういえば入り口が開きっぱなしだが大丈夫だろうかと不安になった。しかし塞いだとしても異世界の誰かが見つけてしまったら、あの板ではドンドンやられて開けられてしまいそうだ。そうなったらファンタジーではなくホラーだ。異世界の生物はこちらにやってこられない仕様になっていることを祈るしかない。


 そんなことを考えていると、コウタが戻って来た。両手で拝むように支えながら、自分が食べていたサラダと同じプラスチック皿を持ってきた。


「なにそれ」

「ライスSS」


 そう言ってコウタは、皿をテーブルの上に置いた。確かに白飯が盛られていた。別に変なことではないが、なんだか不思議な気がした。


「いくら?」

「70円」

「微妙な値段」


 タクヤは量のわりにやや値が張ると思いながら、白飯を見つめていた。コウタはそこへ、残った担々麺のスープをかけた。どんぶりを戻す際に、テーブルの上にスープがこぼれた。


「あ、やべっ」


 鞄からポケットティッシュを取り出すと、コウタは中から何枚かを引き抜き、テーブルに置いた。


「普通ご飯の方を入れるだろ」

「いや、そうするとスープを全部飲むことになるだろ?それはさすがに体に良くないと思って」


 ティッシュでテーブルを拭きながら、コウタは答えた。どんぶりに残っているスープの量からすると大差ないのでは、と考えたタクヤだったが、ふとポケットティッシュに入れられた広告が目についた。そこには異世界メイド喫茶と書かれていた。


「ああ、それか?どこで貰ったか忘れたけど。世は空前の異世界流行りだからなぁ。そういうのも需要あるんだろ」

「異世界の需要ねえ・・・」


 少なくとも自分はもう充分だ、とタクヤは思った。


「行きたいならそれ持ってけよ」


 じっとポケットティッシュのチラシを見ていたので、異世界メイド喫茶とやらに興味があると、コウタは勘違いしたようだ。タクヤは即座に否定した。


「いや、行かないよ。そういうのって高いし」

「そうだよなぁ。異世界はマンガやアニメだけで充分だ」


 その通りだと心の中で同意しつつも、せっかく異世界の話題になったのだからと、タクヤは聞いてみることにした。


「コウタだったらさ、異世界で何したいとかある?」

「異世界かぁ・・・まあ魔法使ったりとか、モンスター倒してかわいい女の子といちゃいちゃして、くらいじゃないか?」

「それは、そうできればだけどさ。自分が強かったりする前提じゃん。そうじゃなくて、今の自分のまま行ったとしてさ、何ができるかなって」

「なるほど。9と4分の3番線的な感じで異世界へ行ったとしてか」


 コウタは腕を組んだ。そしてひとしきり考えた挙句、出した答えが「観光」だった。


「まあ、そんなところだよなぁ」


 タクヤは椅子にもたれかかって少しずり落ちた。そして、帰ったらさっさと不動産屋に連絡しようと思った。


「悪いな、つまんない答えで。ひょっとしてアレか?漫画のネタ探しか?」

「違うよ。ちょっと聞いてみただけ」

「そっか。まあ何もなく異世界に行ったところで何も起きないってことだな。マンガはマンガ、現実とは違うよ」


 現実に即して描いてしまえば、異世界へ行って本を読むだけの漫画になってしまうな、とタクヤは考えた。それではまるで締まらない。逆に斬新と、ニッチな漫画として話題になるかもしれないが、それはタクヤの描きたいものではない。描きたいのはもっと劇的で真に迫る物語だ。例えば、あの本のような。


「・・・」

「どうかしたか?」


 声をかけられて、タクヤは自分が神妙な面持ちで考え込んでいることに気付いた。


「ん?ああ、いや」

「そろそろ行こうぜ」


 コウタは鞄を肩にかけ、トレーを持って立ち上がった。タクヤもそれに倣い、返却口でトレーを返した。午後は異なる講義を取っていたふたりは、途中で別れてそれぞれの教室へと入った。



 タクヤが部屋へ戻ったのは、陽が間もなく沈むころだった。帰りがけに100円ショップに立ち寄り、靴に着けるビニールのシューズカバーを買って来た。前日に室内での靴の着脱に苦労したからだ。


 異世界はもうお腹いっぱいと思っていたタクヤだったが、コウタと話していたときの思い付きを実行するために、再び向かおうとしていた。それは異世界で読んだあの本を漫画にすることだ。そうすれば、昨日の自分が味わったような、物語への没入を感じられるものが描けるだろうと考えた。


 しかしいざ部屋に帰ってみると、だるさと眠気に襲われた。昨日は動き回った上にあまり寝ていないのだから、当然と言えば当然だった。

 タクヤはひとまず、形だけでも穴を塞ぐことにした。クローゼットの折戸を閉めれば見えなくはなるが、穴が口を開けたままなのは精神衛生上よくない。中棚に乗せていた板を穴に合わせてプラスチックの衣装ケースを押し当てると、思いのほかしっくり行った。


 シャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かすころには、もう寝る方に意思が傾いていた。歯磨きや明日の講義の準備を済ませたタクヤは、もし2~3時間で起きたのなら異世界に行くことにしようと考えた。ぐっすり寝てしまってもいいように、翌朝の起床時間にスマホの目覚ましをセットして枕元に置いた。


「さて、寝るか」


 タクヤはあくびをしながら、ベッドに寝転んだ。



 目を覚ましてスマホの時計を見た。20時半。3時間ほど眠ったことになる。タクヤはゆっくりと体を起こした。


 これはまあ、行けってことだよな、とタクヤは思った。そして、誰が行けと言ったのかと突っ込んだら負けだとも思った。


 タクヤはペンとメモ帳だけをポケットに入れた。他にも色々持って行こうかと考えたが、周囲の人に怪しまれることは避けたかった。様々な服装の人々が行きかう中でもタクヤの格好は風変りだったようで、昨日も警戒の視線を感じることがあった。街中でスマホなど取り出したらどうなるか分かったものではない。


 あとはタオルだと、タクヤは洗面台下の戸棚から一番汚れたものを持ち出した。前回、穴から這い出したときに手が汚れたので、暖炉のそばを掃除したかった。そしてゴミ箱に乗せたままだったスニーカーにシューズカバーをかぶせて履いた。靴で床を直接踏むわけではないのだが、なんだか罪悪感があった。


 こうして準備を整え、タクヤは寝る前に塞いでおいた穴の入り口を再び開けた。

 タクヤは中へ入り、異世界へと移動した。3回目ともなれば、謎の光に包まれる現象も慣れたものだ。

 穴から出る前に、持ってきたタオルで手をつく場所を掃った。そうして部屋に出たあと、暖炉近くの床の汚れも払いのけた。シューズカバーを外してきれいにした場所に置き、汚れたタオルは掃除していない少し離れたところに置いた。


 タクヤはまっすぐに図書館を目指した。昨日は苦労した階段も今回は足取り軽く、はやる気持ちとともに速足で上った。建物の中へ入ると、カウンターには今日もあの司書さんがいた。はっきりこちらを見ていたわけではなかったが、タクヤはなんとなく会釈をしてあの本の棚へ向おうとした。


 しかしその途中でタクヤは足を止める。そこは魔法の本が並ぶ棚の前だった。淡い期待を持ちつつ、もう一度、魔法の本にチャレンジしてみることにしたのだ。

 やはりダメだった。あの英雄譚のように固有名詞だけが読めないのならと思ったが、どうやら魔法の感覚を伝える語なども意味の分かる言葉にはならないようだった。それでも今日はこれが本題ではないとばかりに、タクヤは潔く本を戻して当初の目的の棚へ移った。


 あの本のある場所を確認したのは、読むために席に持ち出した一度きりだったが、棚の前に立つとすぐに見つかった。タクヤは昨日と同じように、それを持って近くの席に座った。そして物語の初めから読み、内容をメモしていった。ところどころ簡単な絵も描きながら想像を膨らませて行ったが、途中でメモ帳を閉じてしまった。


 タクヤは本の真ん中あたりを開いてから求めるページを探し、あるところで止めた。それは昨日の続きだった。メモを取りながら物語の続きが気になり、作業に集中できなくなったので、先に最後まで読んでしまおうと思ったのだ。


 しばらくの間タクヤは読書に没頭した。昨日と同じように様々な想像を掻き立てられながら、次々と展開する物語をじっくりと味わった。読み終えると大きな満足感とともに、そっと本を閉じて表紙を見つめた。


 ・・・帰ろう。


 急がなくても異世界は逃げないと、タクヤはこの日の作業を切り上げることにした。本は近くにあった返却棚に置き、図書館を出た。穴に入るときには、汚れ切ったタオルを入れるための袋が必要だったと後悔した。


 自室へ戻って来たタクヤは、メモ帳を見ながら漫画を描いてみることにした。

 デスクトップパソコンの電源を入れ、ペンタブレットを取り出して、ほこりを掃除用の不織布ふしょくふで拭きとって机に置いた。しかしパソコンの立ち上がりを待つ間にメモ帳を見て落胆した。


 書いてあったメモが読めなくなっていた。異世界の本の読めなかったところと同じような、グニャグニャの記号が並んでいるだけだった。それでもメモを取るという作業をしたことと、併せて描いていた絵はそのままだったので、物語の内容を思い出すことができた。


 タクヤは覚えている部分を改めてメモ帳に書き出しつつ、パソコンでネーム作業を始めた。あまりに久しぶりのことで最初はソフトの操作も覚束なかった。それでも、コマ割りや構図を試行錯誤していると、徐々に以前の感覚が戻って来た。


 ブランクを感じつつも作業を進めていると時間はあっという間に過ぎ、気が付くと深夜の3時を回っていた。


「今日はここまでかな」


 タクヤはペンを置きパソコンの電源を落とした。

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