寺山修司「幸福論」を読んで省察した幸福

 幸福論は不幸から目を逸らす為の案山子であり、その本質は陽動である。

 不幸の味を知っているからこそ幸福が引き立つ。自分の幸福は他人の非幸福かもしれないし、その逆も有り得る。なので不幸を忌避したとしても撲滅しようなどと思い上がらない事だ。

 

なぜこの本を呼んで十枚書こうと思い立ったのか?

 確か令和六年四月の事だったと思う。暇空茜氏と井川意高氏の対談配信を視聴し、前者が後者に対して「あなたにとって幸福とはなんぞや?」という旨の質問をしていたのが私の心にも引っ掛かった。私の幸福とは何なのだろう、どのようなものなのだろうと疑問を抱き、それから程なくして自分の本棚を見返して題名に「幸福」を冠する本書を数年ぶりに引っ張りだしたという顛末からこの文書を書くに至った。

 

不幸という言葉に対しての所感

 余裕に対してあそびという言葉を当てているのに、欠乏に対して碌な言葉が当てられていないのが現代日本における不幸ではあるまいか。あるいはそれを無意識に「ゆめ」と誤魔化してきたツケを支払っている。その負の利息が現在の閉塞感の正体の一端だと感じている。

 あるいは現在「不幸」と慣用されている言葉の中に非幸福──幸でも禍でもない──を混ぜん込んで分離できない状態が不幸の根源で「わざわい」と言いなして取り分けるべきではなかったか。それを怠り他者を出し抜き幸福という上澄みだけ啜ろうとするだけに飽き足らず、幸福に与れないなら不幸という澱みを撹拌させて幸福の味を落とそうとしている。そして幸福の味を感じ取る舌の機能を貶めようとしてしまっている。

 そうだとしても、わざわいをわざわいだと名指してしまうのは危険だ。何故ならば、そう名指すだけならいざ知らず、そう呼び続ける事で気が付かぬ間に止めようにも止められなくなる。やがてわざわいと名指す者の害意や忌避感は雪達磨式に増え、わざわいだと名指されたものは立つ瀬がなくなる。結果、その場の雰囲気は邪気や瘴気に塗れ、わざわいと名指す前よりも濃く強いわざわいが醸し出される。

 これは快不快に置き換えるとわかり易かろう。主に年端もいかぬ若者が「気持ち悪い」やそれを略した「キモイ」と宣っているを見聞きして顔を顰めた経験が貴方にも一度はあるだろう。分別つかぬ若い内ならまだ生意気だと微笑んでもいられるが、成人しても万日過ぎてもそのような害意を隠そうともせず気に食わぬものを排斥して憚らなければ彼らは自身が「キモイ」と名指したものよりも遥かにキモイし気持ち悪い。

 上記の理由から「触らぬ神に祟りなし」と有耶無耶にせざるを得なかった。先に私は不幸からわざわいを取り分けずにいるのは怠慢だと詰ったがここで訂正しよう。わざわいは不幸という言葉で有象無象とともに沈殿させておくしない。不幸という言葉で非幸福の内に毒にも薬にもならない大部分に毒性の高いわざわいを混ぜん込んで放置しているのは知識だけでは捉えきれない先人の知恵に違いない。よってわざわいだけを分離するのは困難極まりないから、不幸は幸福で相対化してやり過ごすしかない。言い換えれば不幸という澱みを忌避して幸福という上澄みを人知れず啜るしかない。たとえそれが喉の乾きを海水で潤さんとするような愚行だとしても。

 

 ではなぜ不幸から毒であるわざわいを取り分けようとしないのか、と言うより取り分けられないのか、別の観点からも考えてみよう。寺山は以下のように述べている。

 

❝現代人にとって変装術は「身をかくす」ことではなく、「身をあらわす」ことになりつつある。このへんに、「幸福論」の糸口が見出されるのである。❞(六十八頁)

 

 不幸をかくす事から幸福をあらわす事へ転換しつつある現代において、どこに行けどもついて回る自分自身という存在こそ避けようのない必然なる悲劇。幸福論はそんな自分自身という存在から目をそらす為の案山子──心に住まう青い鳥が熟す前の死の穂や自我の実を啄まないようにする為の──である。あるいは捉えてしまった不幸に囚われて一緒に沈殿しないようにする為の陽動なのかもしれない。

 

❝幸福は決して一つの「状態」ではないのだと知ったとき「幸福になってしまったあと」などということばは失くなるはずである。❞(二百五十六頁)

 

 ここの❝一つ❞は一人と読み替えても差し支えあるまい。けれど不幸は一つの、或いは一人の「状態」から始まる。だから「不幸になってしまう前」ということばは子供騙しでは済ませられない。万人に当てはまる絶対的な幸福というものが幻想に過ぎないと悟れないから、幸福とは何かと迷い彷徨い続けなければならないのであろう。自分とその死という悲劇が以前より熟したが故に使わざるを得ない臭いものにする蓋や消臭剤、それが幸福や幸福論であり、それらを求めてやまない姿勢である。幸福を枠で嵌めようとしてはいけない。けど幸福論という枠でなければ人は幸福を捉えられない。幸福を条件付けようと頭を働かせ始めるのは同時に不幸という澱みに片足を突っ込んでいる。

 

❝必然的なるものは常に悲劇的である。べつのことばで言えば、避けがたいものこそ最大の悲劇である。❞(百七十一頁)

 

 必然的で絶対的な幸福は存在しない、幸福は常に偶然的で相対的である。対して絶対的な不幸──否、わざわいとあえて言おう──は存在しうる。それは究極的には死に他ならない。死は対なる生を絶つ。しかし生は死を絶たない。むしろ対なる死をたすける為に存在している。よって幸福も対なるものを相ける相対的でなければ存在し得ないし、究極の悲劇、わざわいたる死は対なるものを絶つが故にこそ絶対的である。他ならぬ自分自身のそれは絶対的でしか有り得ない。人生というものは誰にとっても一度しか味わえない死を迎える為に与えられた執行猶予期間ではあるまいか。その死という絶対的な終点、わざわいから目をそらす為に必要な補助具が幸福及び幸福論であろう。別の観点から言うと、幸福や幸福論を求めているその姿勢こそ不幸への小さな一歩に他ならない。しかし、それは回避の為の後ろ向きな姿勢ではなく、むしろ要撃せんが為の前向きな姿勢だ。だとしたら、いずれやって来る絶対的な悲劇すなわち死をどのように受け容れたらいいのだろうか? そう、幸福や幸福論で眼を逸らし続ける事で、前向きに言い換えるなら幸福論というレンズで幸福に焦点を合わせて不幸を視野の外に追いやる事によってである。

 

それなりそれなり──私の幸福論=奇跡への期待/健全な牽制

 前段で幸福論が必要な理由が御理解頂けた事だろう。現時点で貴方には不要かもしれないが、いずれ必要となった時の為の足掛かりとして私が本記事を書き始めてから思い至ったそれを以下に書き残しておく。紙幅と企画の都合上「どのように」なっているかは述べるが「なぜそうなったか」は本記事では略する事にする。以下に記す幸福論は少なくとも私には必要だったし、これからも折に触れて利用する事だろう。

 

 私にとっての幸福、その多寡は二つの側面から量られる。まず第一に奇跡への期待だ。自分はこの記事を書き始めた頃は自分にとっての幸福は奇跡を起こす事とそれまでの軌跡そのものではないかと思っていた。だが、奇跡や幸福を求めれば求めるほど現状の自分はそれに与れていないのだという事を感じるようになっていった。やがて奇跡が起きてもいいし起きなくてもいい。それを成そうとしている姿勢で在り続けられる事そのものが幸福。その道程を歩める事そのものが幸福。道程だけでも行人だけでも幸福とは言い難いと考えが変わった。また、奇跡を迎え入れる為のあそびが常に確保出来ているし、些事雑事に忙殺されかかっても間隙を取り戻せると希望を持ち続けられる環境を調えられる事ではあるまいかとも考えるようになった。

 そして奇跡という賓客を迎え入れる為に心身という家屋の主人として敬虔な信仰心が必須だとも感じた。その信仰の自由が守られている環境、脅かされたら抗う覚悟、それらを保全し続けられる事こそ我が幸福なのだろうと思い至った。

 

 別の角度から述べると幸福は自我という地図で包装された奇跡の孵卵器ではあるまいか。その地図には己が城を中心に版図の余白が周囲に広がっている。その地図は刻一刻と今この瞬間も書き換えられている。この包装を解いて中身を晒す相手はよく見定めないといけない。中身を晒しても分かち合う相手は厳しく見極めねばならない。そこで必須の判断基準がその人が健全な牽制に与れるか否かだ。

 健全な牽制とは誰しもに信仰の自由とそれを裏打ちする抵抗の覚悟が保障されている状態である。誰しもにその欲求の申請権と他者のそれに対する拒否権が保障されている事である。或いは安心という潤滑油と緊張という研磨剤。油塗れや薬漬けになるような関係は宜しくない。これこそ幸福に条件付けて不幸に片足突っ込んでしまったとしても帰ってこられるよう必須の十分条件である。良好な関係の維持には時に固辞も必要なのだ。

 

 以上の二点を踏まえて我が幸福論を簡単に言い做すと「それなりそれなり」になった。

 求めたらそうじゃなくなる。すでにある、そうなっている。生そのものが幸福である。不幸を知っているからこそその幸福が引き立つ。意味や理由や真贋を問わずにいられる間こそ幸福、それらを問い始めたり、幸福を求め始めたら不幸への第一歩。だけど問うなとも求めるなともは言わない、それは魂の本能であり人の源動力なのだから。だから問うなら問うで、求めるなら求めるでそれらは分母に追いやるべきだ。即ち少なければ少ないほどよいが、決してゼロにはならない。

 だから「それなり」でいい。いつもどこでも誰とでも誰しもが、それなりに幸福。それなりに不幸。

 

※引用頁は全て角川文庫改版八版による。

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