拾枚帖

枕本康弘

「原稿用紙10枚を書く力 齋藤孝著」を読み込んだ所感

 幸運でも不運でも偶然を偶然のままにしない為にとにかく書き出すべきだ。

 書きながら考え考えながら書くべきだ。

 そうでないと思考が自分の内側で堂々巡りして空回りしてしまう。偶然を必然に変えられなくとも、幸福が来やすく災禍を避けやすくするヒントを得られるように書いて思考を進めるようにした方が良い。

 同じような物事を考え続けて自分の思考が螺旋を描くようになったのなら、空回りさせ続けているのは勿体ない。然るべき箇所に穴を穿てるように変わっていくべきだし構えておくべきだ。


なぜこの本を呼んで十枚書こうと思い立ったのか?


 ”考える前に書きはじめ、書きながら考えていくという書き方は絶対にやめることである。”(百二十七頁)

 

 この文言に私は激しい抵抗感を覚えた。書かなければ考えられないし、考える為に書き出すのに、と。

 頭や心そういった自分の内側に渦巻いている思考を一度紙上に書き出してやらなければ同じような悩みや似たような過程を堂々巡りしてしまうではないか。正に今までがそうだったし、これからもきっとそうだろう。

 書きながら考え考えながら書かなければ思考を前に進められない。少なくとも私はそうだ。行き詰まりかねない思考が螺旋錐ドリルになったのなら然るべき箇所に穴を穿たなければ宝の持ち腐れだと思ったからこうして筆を執る事にした。

 まず前提として、書く事は走るのに似ており、四百字詰原稿用紙一枚は一キロに相当すると著者は定義し、十枚書く為にはトレーニングが必要だと主張している。私は実際にこの文章の下書きを始めて原稿用紙三枚、引用部分を抜けば一枚あまりの文量で行き詰まっている。

 

 ”原稿用紙三〜五枚の文章はトレーニングしなくても書くことができるが、十枚となると、書く前にメモやレジュメをつくり、文章の全体像を構築しなくてはならない。この技術はトレーニングをしなくては身につかない。逆にこの技術さえ身につければ、さらに長い文章を書くことも可能になる。“(十九頁)


 私はかねてより小説が書きたいのに中々書き出せずにいる。見聞きしたインプットを書いてアウトプットするところまで持っていけない。あれこれ書きたい場面や活かしたい設定は沢山あるのに、それらを有機的に組み合わせて作品に昇華する事が出来ずに困っている。プロットの骨組みが脆く、伏線を繋げられたとしてもピンと張り詰めていない。こういう現状を少しでも改善する為に「書く力」が欲しいと切に願った。だからこの本を何度も何度も咀嚼して血肉に変えようと誓ったのだ。


そもそも何故人は文章を書くのか?

 理由は様々あろうが書く事とそれによって目指すべき事について著者は次のように述べている。

 

 ”書くという行為は、新しく意味を生み出すことである。意味を生み出すとは、価値を創造することだ。”(六十二頁)

 ”書くことでめざさなければいけないのは、主張内容を過不足なく込めることである。主張内容とは、書く人の「新たな気づき」である。”(六十七頁)


 新たに意味を生み出す即ち価値を創造し、その内容を過不足なく主張する。それは書く人にとって「新たな気づき」でなければならない。

 この主張にも私は首を傾げざるを得ない。それら新たなものというのは全くの無から生み出されたものだろうか? 必然だけで生まれたものだろうか? 断じて否である。むしろ偶然こそがそれらを生み出す必要条件に相違ない。それなのに書くことによって偶然を廃しようとするのは、恩知らずという誹りを免れ得ないのではないか、と私は思った。かと言って偶然を無条件に全肯定してしまい思考を上滑りさせてしまうのも違うだろう。

 いずれにしろ、古いものをずらした間隙や新たな組み合わせの緊張がどのような状態であるかを描写するのが書く意味であり目的であると私は考える。それは生み出すや創造という言葉だけで捉えるには先達に対する敬意に欠けるようにも感ぜられるので再認識や再発見と言い直すべきであろう。


メモは偶然、レジュメは必然

 ”書くという行為に偶然などない。(中略)自分と正面から向き合って、人ははじめて文章を書ける。書くことによって、自分の意識の中を深く通過しているのだ。”(六十二頁)


 ここの“書く”という言葉はそのまま捉えてしまってはいけない。そう気づくまでこの書を何度も通読する必要が私にはあった。自分と正面から向き合うには自らに降り掛かった偶然とも向き合わなければならない。書く事によって偶然を排除しようとする傲慢に片足を突っ込んでいると言わざるを得ない。なぜなら偶然を許容しないと文章に生命が宿る隙までがなくなってしまうから。物語制作者が自身の作品を顧みて感慨深そうに「キャラが勝手に動き出した」とよく述懐するのは偶然を許容していたからこそに他ならない。自分の内側に入り込んできた偶然をそっくりそのまま言語化する事は難しいが、その端緒をメモして残しておく事は可能だ。だから書き手が味わった幸運な偶然に紐付けて読み手もそれに巡り逢いやすくなるように、あるいは不運な偶然からその兆候を察してそれに警鐘を鳴らす為にも、偶然を材料にして必然的な設計図を仕込んでおく必要があり、それこそが本書が制作を義務付けているレジュメというものである。


 ”レジュメは書く前段階として構成や中に入る項目などをまとめたものである。実際に書くときには、絶対にレジュメをつくらなくてはならない。レジュメをつくるとき、項目ごとに百字以下でいいので、何について書く項目なのかを書き込んでおく(中略)レジュメは書くことと別の作業としてとらえるのではなく、並行した作業”(百九頁)


 レジュメとは言うなれば航海図である。自分という此岸から他者という彼岸に向けて、文字という小舟を使って渡りをつける際にあった方がいいものである。ごく一部の天才やそれに近しい熟練者はなくとも迷わずに渡れるであろうが、その他大多数を占める我々凡人や初学者はレジュメを作り論理──主張内容の前後のつながり──を構築するところから始めて、主観を削いで客観性を高めていくべきなのである。

 したがって先に引用した”書くという行為に偶然などない。”という命題は、厳密には「他者に向けて書く、その為に構築するという行為に偶然など無い」と書き直すべきであり、この書を通読すれば文脈からそれは十分察せられるであろうが、私の理解力では誤解しかねなかったので、こうして書き残しておく事にする。

 著者もそれを予見しているのだろう。他人に向けて書く構築と自分に向けて書くことは違うと述べている箇所があるので補遺として以下に引用しておく。

 

 ”自分に向けて文章を書くのは、自分の中を探っていく行為である。それは、言葉を頼りにして自分の感じていることを鮮明にしていく作業でもある。何か大事なことをつかめた気がするのに、どうもはっきりしないというようなときに、書くことでそれをよりはっきりとさせることができる。(中略)これは対他人に向けて書くという行為、すなわち構築することとは違う。”(百五十頁)

 

 ここにも私は言葉を補いたい。他人に向けて書く為に(論理の)構築が必要なら、自分に向けて書く為には(感覚の)探求が必要だ、と。前者は他者に向けて発するから量より質を重視すべきだし、後者は自分と向き合うので質より量を重視すべきである。その応酬を続けていけば自ずと「書く力」が培われていく事だろう。そして著者も本著の初頭中盤で繰り返し述べているようにそれにはまず量をこなした後に質を高めていくという順番を守るべきなのである。

 量から質への転換は自分自身の姿勢を受動から能動へと重心を移していくさまに合同と見紛う程に相似している。それは自分が偶然知覚した感覚の探求を過不足なく必然的に構築した論理に変換して他者に託した時点でまた自身の姿勢を切り替える必要が出て来る。

 なぜならば自分にとっては必然で当然な過不足ない完璧な論理だとしても、それを受け止めた他者にとっては偶然であり知覚された感覚の一刺激に過ぎないのだから。そこには当然過不足があって然るべきだし、それがありえないと断言するのは発信者として傲慢であるとの誹りを免れない。もっと縁や偶然といったものと真摯に向き合うべきであり、軽やかに付き合うべきである。

 その為にも最初から上手に書こうなどと肩肘張らず気楽に自分の心の琴線に触れた事柄をメモにどんどん書き出すべきであり、それがある程度進んで行き詰まりを感じ出してからレジュメを作り始めても十分間に合うのである。そして自分の主張内容に高い客観性を付与するにはレジュメという航海図が必須なのは先述した通りである。重要なのは往復であり、忌むべきは自分の内側で悶々とああでもないこうでもないと悩み続け、思考していると嘯き文字に起こさぬまま似非の思考で自縄自縛に陥ってしまう事である。

 最後になぜそこまでして一般的には書かれないレジュメというともすれば七面倒臭いと感じるものを書くべきなのか。それは端的に言って偶然からおもしろさを見極める為である。つながっていなかったものがつながっていたと気づく為にも、それらをつなげるラインを知覚する為にも、文字に起こして不可視のつながりを可視化して気づきやすくなるレジュメを並行作業でつくりながら書くのは必須である。


 ”おもしろいとは、それまで頭の中でつながっていなかったものがつながるということでもある。読み手にそういう刺激を与えるラインをつくるのが、文章を書くことの醍醐味だいごみの一つでもある。”(九十六頁)


 こうして感想や考察を原稿用紙十枚前後にまとめたものをこれからこの拾枚帖に書き連ねていこうと私は決めたのであった。


※引用頁は全てだいわ文庫第四刷による。

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