4話 五百年前(2)
満月の光りが降り注ぐ荒野に、血と煙の臭いがする。
食欲を刺激されるまま、俺は死骸の山から、人族の足首を掴んで引きずり出した。皮膚に齧り付き、牙で骨をかみ砕き、丸呑みにする。
いくら飲み込んでも腹は減り続けた。
口の中に肉塊を押し込む。
頭、腹、腕と手当たり次第にかぶりつくも、味がしない。
そこで俺は夢だと自覚した。
魔獣オーガであった頃の俺だ。
自覚したからといって、肉を喰らう手をとめることはできない。
ただただ過去の出来事をなぞるだけだ。
食うことに夢中になっていると、背中の毛が逆立った。振り向くと同時に、銀色の光りが一閃する。
反射的にかざした手首が宙に弧を描いた。
人族の雌が振るった剣が、俺の手首を切り落としたと理解するまで数秒。
「我が名はアルティミシア。
高らかに告げる人族の雌は、俺の背後に視線を移し、顔をゆがめた。
「……貴様、どれほど人を殺せば気が済むのだ」
誤解しないでもらいたい。
人族同士が勝手に縄張り争いをし、残していった死体を俺は食っているだけである。
弁明したところで、人族に俺の言葉は通じない。
人族の雌――アルティミシアはふたたび剣を構え、俺に斬りかかる隙をうかがっている。
たいていの人族は俺の姿を見れば逃げる。しかし、冒険者や勇者とやらは、逆だ。
俺を殺すための毒や爪や牙を持たないというのに、襲いかかってくる。
食っても食っても奴らは俺の行く手を阻んだ。
姿を見せなければ食われることもないだろうに、人族は何が目的で俺を殺そうとするのだろう。
会話ができるものなら聞いてみたいと、当時の俺は思っていた。
俺は切り落とされた手首を拾い、腕の断面に押し付ける。手首は瞬きする間に繋がった。
腕を上下に振る。違和感はない。
「化け物め……」
アルティミシアと名乗った雌が顔を歪め、剣を構えた。刀身が銀色の輝きを増す。
魔力を帯びたそれは俺の胸を狙っていた。
どんなに強力な武器でも当たらなければ意味はない。
アルティミシアが突進するよりも速く、俺は彼女の目と鼻の先に近づいた。
驚愕に目を見開くアルティミシアを、俺は真正面から殴った。
骨が軋む音とともに、アルティミシアはいとも簡単に宙を飛んだ。放物線を描き、ドサリと地面に落ちる。
そして動かなくなった。
全身肉付きが悪く、食っても不味そうだが、せっかく狩った獲物を無駄に腐らせてしまうのは、心苦しい。
アルティミシアは口から血を吐いた。呼吸が浅い。
人族は俺に食われる瞬間、「ユルシテクレ」と叫ぶ。「ユルス」の意味は分からない。敵を倒す魔術詠唱かと警戒するも、魔術が発動したことはない。
アルティミシアも「ユルシテクレ」と叫ぶのだろうか。彼女の顔を覗き込む。
青い瞳は生命力に溢れ、炎のような熱を感じさせた。
「……それ以上、近付いてみろ。喉を切り裂いてやる」
血反吐を吐きながらも人族の雌は、剣の柄をしっかりと握り締めている。
不覚にも、俺は一歩後退した。
アルティミシアを荒野に置き去りにしたのが運の尽きだった。
その後、彼女は何度も俺の前に現れた。
相当な深手を負わせても、数日もすれば俺に殴られたことを忘れたかのように姿を見せる。
人族は俺を食うために襲ってくるわけではないらしい。
俺を倒すこと、それだけが目的のようだ。
人族の戯れに付き合ってやる義理はない。
つきまとわれうんざりした俺は、荒野から移動し、大森林に身を隠すことにした。
大森林には大型の魔獣が多い。人族がそう簡単に足を踏み入れることはできない場所である。
俺は巨木のウロを、寝床にすることにした。
動くモノは何でも喰らう
これでしばらくは静かに過ごせる。
安堵したのもつかの間、数日後、アルティミシアが俺を追ってきた。
巨木の目と鼻の先に、人族の臭いがする。
俺はウロから出て、灌木を注視した。昼間でも背の高い木々の葉が生い茂っているせいで辺りは薄暗い。
頭上の木々から鳥たちが飛び立ち、ネズミなどの小動物が鳴き声をあげながら、草地を駆けていく。
巨木から生き物の気配がなくなった。
アルティミシアが灌木から頭を出した。
身に纏う鎧には血や泥がこびりつき、長かった金髪は肩の辺りまで短くなっている。
幾度となく死にかけているのに、何度も立ち向かってくる弱者に俺は思わず、
「しつこい」
と、牙の隙間から唸り声とともに、不満をもらした。
どこからでもかかってこい。俺が前かがみで戦闘態勢に入る一方、剣を構えたアルティミシアの青い瞳が眼窩から零れんばかりに見開かれた。
そして。
「魔獣が喋った!」
大きな声が森に響く。
さらに遠くのほうから鳥たちの羽ばたきが聞こえた。
「……貴様らの言葉を操るなど、造作もない」
平静を装いながらも俺は内心、心臓が口から飛び出そうになっていた。
己の言葉が人族に通じるとは思わなかったからだ。
俺よりも先に衝撃から復活したアルティミシアが早口で捲し立てる。
「魔獣と意思疎通した人族は、私がはじめてじゃないか。なあ、君、名前は?」
剣を構えたままであるが、アルティミシアから殺気が消えている。
一歩跳躍すれば、口
「……
「それは固有種族名だろう。私は人間ですって言ってるようなものだ」
魔獣で群れを作る種――竜種などは一族で固まって生活するため、個別の名を有している。オーガは個で狩りをする。呼び合う相手がいないので、名は必要ない。
なぜアルティミシアが俺の名をこれ程知りたがったのか、後日、理由を知ることになり、この時答えを持ち合わせていなくてよかったと安堵したものだ。
しかし名を聞かれた当時の俺は、アルティミシアの問いに答えられないことにひどく苛立ちを覚えた。
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