34 動揺

 リビングのローテーブルの上には二つのリングスタンド。あれからジュノが買ってきたものだ。洗い物や風呂の時にはここに指輪を置く癖がついた。


「メイ、今日は打ち合わせ。夜には帰ってくるからご飯は欲しいな」

「わかった」


 午前中の内に買い出しを済ませることにした。七月に入り、日光はギラギラと鬱陶しい。涼しいものを、と思って冷しゃぶにした。

 ジュノは俺がスーパーから帰ってきたのと入れ替わりに出ていってしまった。豚肉を茹でて冷蔵庫で冷やし、自分一人だけなのでカップ麺で適当な昼食。

 掃除機もかけてしまって、やることがなくなった。図書館へはすっかり行かなくなり、借りている本は一つも無かった。

 ベッドに寝転がり、スマホをいじった。メッセージアプリの俺のアイコンは初期設定のまま。それを変更したくてあれこれやっていたら、変なところをタップしてしまった。


「あれ……?」


 ブロックリストに一の数字があった。それを見てみると「ユミ」という連絡先があった。


「えっ? 何? えっ?」


 心拍数が上がっていく。ジュノとの会話の中で、「ユミ」という名前があがったことは一度もなかった。このスマホは、ジュノに買い与えられたもの。ジュノ以外と連絡先を交換しているはずがないのだ。


 ――じゃあ、つまり、そういうこと?


 このスマホを手に入れたのは去年の六月三日。俺が記憶を失ったのが一月二日。それまでの間に知り合い、ブロックした人物ということになる。


 ――この人は、記憶を失う前の俺を知っている?


 悩んだ。ベッドに仰向けになってしばらく悩んだ。もう、過去にはこだわらないでいようと思っていた。けれど、この「ユミ」が何か情報を持っているのだとしたら。

 俺はブロックを解除し、長文のメッセージを打った。記憶喪失であること。なぜあなたと知り合ってブロックしたのかがわからないこと。できれば会って話を聞きたいということ。

 返事は意外なほど早くきた。どうやら俺が記憶喪失だということを信じてくれたらしい。何度かやり取りをして、一時間後に駅前の喫茶店で待ち合わせることにした。


「……メイくん? 久しぶりだね。っていっても、あたしのことわかんないんだっけ?」

「えっと……ユミさん、ですね」


 ユミさんは、黒髪を長く伸ばした、活発そうな女性だった。ラフなポロシャツとデニム姿。年齢は俺と同じか少し下くらいか。彼女は俺の向かいの席に座ってアイスコーヒーを注文した。


「いやー、メイくんからいきなり連絡きたからびっくりした。記憶喪失とかさ、そんなドラマみたいなことある? とか思ったけど。まあ、暇だったし話聞くし話してあげる」

「済みません。本当に……俺、ユミさんのこと何も覚えてないんですよ」

「ふぅん……メイくんって演技上手そうには見えないし。本当なんだね。そうだね。どこから話そうか……」


 ユミさんとの出会いはショットバーだったという。一度目は挨拶程度。二度目に連絡先を交換。三度目に……ユミさんの部屋に俺は行ったらしい。


「それで、メイくんに電話かかってきて。同居人だって言ってた……ジュノさんだっけ? 彼氏だ、みたいなこと説明してきてさ。それからブロックされたもんだから、こりゃ浮気バレして揉めたんだろうねってことで、あたしも納得したんだけど」

「えっと……それっていつくらいの話ですか?」

「去年の九月だよ。それからメイくんとは会ってない。メイくんはあのバーにも行ってないんじゃないかな?」


 ジュノは一度もそんな話をしなかった。それほどまでに隠したかったということなのだろうか。


「その、俺、他に何か言ってませんでしたか」

「えっと……何だっけ。ああ、ジュノさんって人とはそのバーで知り合って、そのまま部屋に住ませてもらってる、とは聞いた」

「バーで知り合った……?」


 俺とジュノが最初に食事をしたのは焼肉屋のはずだ。昔の俺とジュノ。嘘をついているのは……どっちだ?


「ああ……マジだね。マジもんだね。バーの場所、教えてあげようか?」

「お願いします!」


 ユミさんは俺に「メテオライト」というショットバーのURLを送ってくれた。ジュノのマンションからはそんなに離れていない。ユミさんは言った。

 

「マスターはメイくんのこと、覚えてると思うよ。話、聞いてみるといいよ」

「ありがとうございます!」


 ――ジュノが、嘘をついているかもしれない。あのジュノが。


 ユミさんと会ったことはジュノには話さないことにした。俺はジュノより早く帰宅し、何事もなかった風を装って夕食を準備した。


「わっ、冷しゃぶか。いいね」

「うん、夏らしいでしょ?」


 食べ終わって、シャワーを浴びた後、いつも通りキスをしてこようとするジュノを俺は制した。


「ごめん、ちょっと今日は気分じゃない」

「あっ、うん……そういう日もあるよね」


 ジュノが先に眠ってしまってから、俺は長いまつ毛を見つめた。


 ――俺は信じたいよ、ジュノ。


 そのためには、確かめるしかない。行こう。例のショットバーへ。

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