32 寿司

 過去を探るのをやめると、途端に何か新しいことを始めたくなってきた。しかし、なるべくジュノに金銭的な負担をかけたくない。思いついたのは、筋トレだった。

 今の俺の身体は、ジュノと比べて細くはなく、無駄な肉はついていないが、筋肉もないという中途半端な状況。それを変えてみたくなったのだ。


「ふっ……くっ……」


 動画を見て真似するだけなら無料である。俺が四苦八苦している様子を見てジュノが笑った。


「また僕の保険証貸そうか? ジム通いとかしてもいいんだよ」

「いや……そこまではいい……自力でやる……」


 そして、ジュノにきちんと想いを伝えてからは、今まで以上にジュノを甘やかした。もしかすると、記憶を失くす前より強烈かもしれない。

 ジュノは人間関係の愚痴をこぼすようになったから、俺が最後まで聞いてやったし、酒が入るとスキンシップが増えるのだが、嫌な顔一つせず受け入れてやっていた。

 そして、五月五日。俺がジュノに嘘をついていなければ、二十六歳になった。


「うわっ……本当にこんな店入っていいの?」

「誕生日なんだから。何でも頼んでいいからね、メイ」


 ジュノに連れてこられたのは寿司屋だった。佇まいは普通の日本家屋といった感じで、看板すら出ていなかった。ジュノが取引先に教えてもらったという完全予約制の店らしい。

 中はカウンター席のみのごく狭い店だった。席数も六つくらいだろうか。ジュノに言われて綺麗めなシャツを着ていったのだが、それでも緊張した。


「僕も気にせず注文するから。あっ、アオリイカだって。食べる?」

「うん……食べる……」

「ここ、赤だしも美味しいんだ。いる?」

「いる……」


 目の前で板前さんが握ってくれているのをまじまじと見ながら、食べるネタを考えていたのだが、一向に浮かばなかった。結局、ジュノに次々オススメされたものをそのまま頼んでしまうことにした。


「ジュノ、美味しい……」

「ねー。僕も仕事の関係でいいもの食べさせてもらってるけど、ここが一番だと思う。だから連れてきた」


 どうやら俺は食事の作法は何とかなっているようで、見苦しい真似はしていなかったとは思う。それでも、店の外に出るまで上手く息ができなかった。会計は……見ていない。こわい。一体いくらかかったのだろう。


「ジュノ、ごちそうさま……」

「あはっ、メイったら何青い顔してるの?」

「多分俺、こんな店行ったことないよ。思い出せないけどハッキリ言える」

「じゃあ、今日が初めてってことで」


 帰宅して、ジュノがコーヒーをいれてくれた。そして、ジュノは一旦仕事部屋に行ったようだった。これは期待してもいいのかな、と思った瞬間、ジュノが紙袋を持って戻ってきた。


「メイが気に入るかどうかはわかんないんだけどさ。僕なりのメイのイメージはこれ」

「開けていい?」

「もちろん」


 中に入っていたのは青いガラスの瓶。何なのか少し迷ったが、フタを外してみてわかった。爽やかなシトラスの香り。これは……香水だ。俺は手首につけてみた。


「うん……これ、好きだよジュノ」

「良かったぁ! メイも多分二十代中盤ってことで、ちょっと大人っぽい感じにしてみたよ」

「いい。凄くいい。これさ、ジュノと出かける時は絶対つける」


 それから、一ヶ月もしないうちにやってくるジュノの誕生日の話になった。


「俺も何かプレゼントしたいんだけどさ……結局ジュノのお金から出るわけで……」

「あっ、それだけどさ。付き合って一年記念でもあるわけじゃない? お揃いのアクセサリーとか買うのはどう?」

「お揃いかぁ……」


 俺とジュノはソファに座り、ジュノのスマホを一緒に見ながらあれこれ話し合った。


「俺がブレスレットあげちゃってるみたいだし、それはナシかな」

「ピアスもナシだね。まあ、僕そもそも穴開いてないし」

「時計は……高いか」

「ネックレスが無難かなぁ」


 俺はアクセサリーショップの公式サイトをスワイプし、一つの画像のところで止めた。


「ねえ、ジュノ。指輪は……重い?」

「あっ……僕もそれは考えてたんだけど。メイが嫌がるかなって思ったから……」

「そんなことない。むしろつけたい。ジュノは、どうなの……?」

「うん……一番嬉しいかも……」


 さらに調べてみると、指輪の内側に刻印ができるらしい。それには二週間ほどかかるということで、俺たちは六月一日よりも前に指輪を選びに行くことにした。


「もし、またジュノのこと忘れて。スマホもなくしちゃって。それでも指輪に名前さえ入れてたら、思い出せるかもしれない」

「僕が土に埋められた時も身元判別できるねぇ」

「なんで発想が物騒な方に飛ぶの?」


 こんなやり取りも慣れたものである。ジュノは想像力豊かというか、何というか。それすら可愛いと今の俺は思ってしまうわけだが。


「メイ、値段は気にしなくていいからね。一生の記念にするんだからさ」

「なんか……結婚指輪みたいだよな」

「ふふっ、実際は僕たちにはできないからね、結婚。いいんじゃない。物だけでもさ」


 ジュノと出会えて良かった。今までのことなんてどうでもいい。俺は、一生をかけて愛することのできる人と、今一緒に過ごせている。

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