27 焼肉

 服を着て、洗面所の鏡を見た。写真で見たのと同じ、一重で鋭い眼光の男だ。耳に緑色のピアスがきらめいていた。


「これは……何の石? エメラルド?」

「そうだよ。メイは誕生日は教えてくれた。五月五日」

「あっ、だからこの名前……?」


 そして、ジュノという名前。


「ジュノは……六月産まれだから? 女神のジュノー」

「うん。メイはそういう知識は抜けてないみたいだね」


 ソファに座り、コーヒーを飲みながら話の続きをした。


「俺って何歳?」

「二十五歳って言ってた。今年二十六だね。まあ、メイが僕に年齢を偽ってなければ、だけど」


 コーヒーはブラックだった。砂糖やミルクは欲しくならなかった。俺は改めてスマホを見た。連絡先はジュノだけだ。メッセージや着信の履歴を確認する限り、日常生活を共にしていたことは間違いなさそうだ。


「ジュノ、俺って付き合ってからは仕事してなかったわけ?」

「うん。家事してもらってた。メイって料理は作れるんだよ。僕も助かってた」

「えっと……ジュノってけっこういいとこに勤めてる?」

「作曲家だよ。作業のほとんどは在宅。まあ、稼いでるね。だからメイ一人養うくらいは大丈夫」


 頭痛は消えていたが、先ほどの行為での虚脱感があった。背もたれに深く身体を預け、大きくため息をついた。


「ジュノ……タバコ吸いたい」

「うん。ベランダ行こうか」


 長い指でタバコを操るその仕草も、艶っぽい唇も、まるで見覚えがなかった。本当に俺はこんな人と付き合って、面倒を見てもらっていたというのだろうか。

 ただ、数々の記録がそれを証明していた。俺にとっては初めてのセックスだったが、ジュノにとってはいつものこと、だったわけだ。それは身体でわからされた。


「っていうか、何で俺とジュノは同じ銘柄なの?」

「ああ、僕がタバコを教えた。それまではメイ、吸ってなかったから」

「ふぅん……」


 自分がどんな風に生まれ育ったのか。身分証明書もなしにどうやって生きてきたのか。それも気になるが……やはり、ジュノとのことだ。これだけ尽くしてくれていた恋人のことを、俺はなぜ忘れた?


「寒いね。メイ、入ろう」

「うん……」


 俺はメイに提案した。


「ねえ、ジュノとは六月一日に出会ったんだよね。どこで?」

「駅前で待ち合わせて、焼肉行った」

「今夜、そこ行かない? 思い出すかも」

「いいよ。そうしよう」


 時間があったので、俺はベッドに寝転んで記憶喪失のことについて調べ始めた。ジュノは作業をしたいからと仕事部屋にこもった。他の部屋は入ってもいいが、そこだけはダメらしい。仕事をする上での機密もあるのだろう。快く了承した。

 記憶喪失については、いくつもの記事が見つかったが、俺のようにすっぽりと抜けてしまうことは稀らしい。一定期間のことを忘れてしまうような病気は存在するのだとか。

 何度かタバコ休憩を挟みながら、記憶を戻すための方法を探ったが、今の自分に合いそうなものは見つからなかった。

 夕方になって、寝室にジュノが入ってきた。


「メイ、そろそろ行こうか。メイの服ならクローゼットの左側。まあ、僕たち背格好似てるから服は共有できちゃうわけだけど」

「ん……やっぱり、初めて見る服ばかりだ」

「一緒に買いに行ったんだけどね……」


 ベージュのニットとデニム、黒のダウンジャケットを着て外出だ。ダウンジャケットの中には、財布と鍵が一本だけ入っていた。


「これってここの鍵ってこと?」

「そうだよ。合鍵作った。メイには自由に出入りしてもらってたよ」


 待ち合わせ場所だった、と言われた駅前のモニュメントを見ても、何の感慨も湧かなかった。焼肉屋にしたってそうだ。何もわからない。


「メイ、どう?」

「ダメみたい」

「そっか。まあ、とりあえずお肉楽しもう。僕もここはメイと出会って以来なんだ」


 ジュノに注文を任せた。ビールで乾杯。それから、ジュノが思い出せる限りその時の再現をしてもらったのだが、結局締めのアイスを食べても記憶をこじ開けることはできなかった。

 炭の火がまだ燃える空の網を見ながら、俺は尋ねた。


「ねえ……俺って変な条件出して付き合ったってことみたいだけどさ。ジュノはなんでそれ引き受けたの? 怪しいでしょ。こわくなかったの?」

「そりゃ、メイの過去は気になったけど。それでも、好きになっちゃったんだよね。だから、何としてでも恋人になりたかった。そんな気持ちになったの、メイが初めてだったんだ」

「えっ……そうだったの?」

「うん。メイは僕にとって初めての恋人だよ」


 ジュノが俺に執着している理由はそれだったのか。俺は小声で聞いた。


「その……セックスも俺が初めてだったの?」

「そうだよ……メイはそうじゃなかったみたいだけど」


 ジュノは残り少なくなっていたビールを飲み干した。


「僕だって、メイの過去の相手は気になったけどさ。知らない方がいいことだってあるって自分を納得させてた」

「そっか……」


 記憶を失くす前の俺は、ジュノを振り回していた可能性が出てきた。せめて、付き合ってからのことだけでも思い出したい。そう思いながら、その夜は終わった。

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