26 再び

 目を開けると、茶髪の綺麗な男性が横たわってじっとこちらを見ていた。


 ――ジュノさん、だっけ?


 確かに彼は俺の「恋人」だと言った。しかし、何も思い出せない。何も。何もかも。


「メイ、頭痛はどう?」

「……マシになってきました」


 どうやらメイというのが俺の名前らしいが、それすらもあやふやだ。


「えっと、その、記憶……まだ戻ってない感じ?」

「はい……思い出せないです」

「参ったなぁ。どうしよう。とりあえず何か食べる? もう昼だよ」

「あっ、はい、そうします……」


 空腹感はあったので、ジュノさんについて大人しく部屋を出た。通されたのはリビングのようだ。


「まあ、冷凍食品くらいしかないけど。パスタでいいかな。メイ、好きでしょ?」

「ええ……そんな気がします」


 ジュノさんはお茶と箸をダイニングテーブルの上に置いた。それから、温まったパスタを食べ始めたわけだが、違和感に気付いた。パスタを食べるならフォークではないかと。しかし、俺は箸派らしい。ジュノさんは俺のことを知っている、というのは間違いなさそうだ。


「メイ、一服する?」

「あっ、えっ、タバコ……?」


 ソファの前のローテーブルの上に、マルボロというタバコが二つ、ライターも二つ。手に取ってみると何となく馴染む気がする。ベランダに出て火をつけるのはすんなりいった。俺は喫煙者だ。

 紫煙をくゆらせながら、ジュノさんが尋ねてきた。


「どう? 多少は落ち着いた?」

「まだ、よくわかんないです。食事ができたりタバコが吸えたりするってことは、日常生活の動作は忘れてないみたいですけど、自分とジュノさんについての記憶がないんです」

「演技じゃないよね、メイ……」

「そんなことしてどうするんですか」


 ソファに座り、まずはこの質問から始めた。


「今日って何日ですか?」

「一月二日だよ。昨日は僕が新年会で外に行ってて、帰ったらメイがお酒飲んでて。酔っぱらってたから、なだめてベッドに連れて行ったんだけど、本当に覚えてないの?」

「全然……」


 それから、俺たちの馴れ初めについて説明された。俺たちはマッチングアプリで知り合った。初めて会ったのは去年の六月一日。ジュノさんの誕生日だったという。

 その夜……俺たちはセックスをして。付き合うことになった。そして、俺に職がなく、ネットカフェで暮らしていたのを見かねて、ジュノさんがここに住んでもいいと申し出てくれたのだという。


「メイは、僕と付き合うにあたって条件を出してきた」

「条件?」

「過去のことを詮索するな。だから、僕はメイの家族や故郷やしていた仕事のこと、何も知らない」

「そうですか……」


 ジュノさんは一度リビングを出て、スマホを持ってきた。


「これがメイのスマホ。僕との写真とかが入ってるはず」

「見ていいですか?」

「もちろん。メイのなんだから」


 スマホは指紋認証でロックを解除することができた。確かに俺のものらしい。


「……この黒髪の男が俺ですか?」

「そうだよ。後で鏡見る?」


 クリスマス、山、海……ジュノと肩を寄せ、仲良く写っている目つきの悪い男。これが俺らしい。


「あっ、マッチングアプリの履歴とかもあるんですよね?」

「それが……メイの持ってたスマホ、壊れちゃって。それは僕が新しく買ったものなんだ。ケジメとして僕もアプリ退会しちゃったし、その頃のメッセージは見れないね」


 ということは、ジュノと出会う以前の情報を知ることはできないのか。


「ジュノさん、俺の身分証明書とかは?」

「それが……メイって何も持ってないんだよ。保険証すらも。だから、今までどうやって生きてたんだろう、って心配してたけど、条件、だったからね。聞けなかった」


 ジュノさんがすうっと手を伸ばし、俺の耳たぶに触れた。


「これも……忘れた?」

「んっ? ピアス……?」

「クリスマスの時に僕が買った。メイからはブレスレット貰った。それも忘れちゃったか……そっか……」


 しゅん、と眉を下げてしまったジュノさん。とんでもなくこの人を悲しませてしまっているらしい。


「ごめんなさい、ジュノさん。恋人だったってことはわかりました。でも、本当に思い出せなくて」

「こうしても……ダメかな?」


 ジュノさんは、俺の頬をさすり、そっとキスをしてきた。


「……んっ」

「身体は覚えてるんじゃない?」

「えっと、あっ、ジュノさんっ」


 ジュノさんは止まらなかった。俺は怯えてしまった。どうしたってジュノさんは初めて出会った男性としか思えなかったのだ。

 しかし、ジュノさんは俺の身体を知っていた。ベッドに移動し、弱いところを的確に刺激され、身悶えてしまった。


「……なんだか、童貞の子相手にした気分」

「ごめんなさい……その、気持ち良かった……ですけど……やっぱり記憶、戻らないです……」


 ジュノさんは、弱々しく微笑んだ。

 俺は、早く思い出さなくてはならない。この美しい人に、これ以上こんな表情をさせないためにも。


「ジュノさん……」

「呼び捨てにしてよ。付き合ってからはそうだった。敬語も禁止」

「うん。ジュノ、俺、絶対思い出すから」


 俺は、ジュノと固く手を握った。

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