24 失恋

 全てを思い出した俺は、椅子に座ってじっと待っていた。

 兄は、二回も裏切った。

 俺に無理やり関係を結ばせて。全ての記憶を消して、他人のフリをして。


 ――許せない、許せない、許せない!


 酒でも飲もうかとちらりと考えたが、まともな話し合いができなくなってはまずい。俺はひたすら我慢していた。


「ただいまメイ。ごめん、遅くなった」

「……おかえり、兄ちゃん」

「えっ……」


 兄は目を見開いた。


「なんで……どうして……」


 うろたえるのも無理はない。兄は俺の記憶が戻らないであろうと決めつけていたのだから。


「鏡の前でさ。思い出したいって強く願ったんだ、寿乃兄ちゃん」

「そっか……記憶、取り戻しちゃったか、鳴……」


 今すぐ殴りかかりたい衝動を抑えるのに必死だった。俺はぎゅっと拳を握っていた。兄はゆっくりと、俺の向かいの席に腰掛けた。


「兄ちゃん。聞きたいことがいくつかある。俺があのバーに行ったのは初めてじゃなかった。つまり、そういうこと?」

「そうだよ。マスターを買収して口裏を合わさせた」


 兄はすっかり開き直っているみたいだ。スラスラとそう言ってのけた。


「他人のフリしたの、なんで? なんで全ての記憶を消したの? 俺は兄ちゃんとやったことだけを忘れたいって要求したつもりだったんだけど?」

「鳴を手に入れるためだよ。僕の目論見通り、鳴は僕の恋人になってくれた。このまま、記憶がないまま、過ごしていくつもりだったんだけどな……」


 兄はガシガシと髪をかいた。俺は次の質問をした。


「じゃあ、やってから記憶消したのなんで? 他人のフリしたいんなら、わざわざあんなことしてからじゃなくても消せたでしょ?」

「最初は兄弟としてしたかったんだよ。僕だって……初めてだったんだよ? それに、鳴に罪悪感を植え付けたかった」

「最低だ……」


 兄は頬杖をつき、琥珀色の瞳で見つめてきた。


「鳴の童貞を二回奪いたかったっていうのもあるよ。本当の喪失と記憶の上での喪失。ねえ、どっちが気持ち良かった?」

「そんなの、今する話じゃない……!」

「それからも、ズブズブとハマってくれたじゃないか。ねえ、僕とするの、良かったんでしょ?」

「うるさい……うるさいうるさいうるさい!」


 俺はダイニングテーブルに両手を叩きつけ、立ち上がり、前のめりになって叫んだ。


「嘘つき! 偽善者! 兄ちゃんが優しかったのは全部このためだったんだって考えると吐き気がしてくるよ! ジュノとしての兄ちゃんは嘘まみれでできてた!」


 至って落ち着き払った様子で、兄は俺を見上げてきた。


「そうだよ。嘘で塗り固めた恋人生活だった。でも僕は幸せだったし……鳴だってそうでしょう? これからも、恋人として過ごそうよ」

「嫌だ! 記憶は戻ったんだ! もう、兄ちゃんのことは兄ちゃんとしか考えられない!」


 ふうっ、とため息をついて、兄が俺の手に触れようとしてきたので、さっと払った。


「触らないで……汚らわしい」

「汚れてるのは鳴もでしょ。何回セックスしたか……もう数えてないけどさ。鳴が自分から求めてきて、よがってた事実は消えないんだよ」


 ぞくり、と背筋が寒くなった。俺は、ジュノを愛した。欲した。交わった。いつまでもこの日々が続けばいいと思っていた。けれど、真実がこんなことだったなんて……あんまりだ。


「鳴はもう、僕のこと嫌い?」


 答えに詰まってしまった。兄には非道なことをされた。憎い。憎い気持ちでいっぱいだ。それなのに、俺は……。

 頭をふるふると振って、椅子に座った。


「……それでも兄ちゃんが好きだよ」


 幼い頃から積み重ねてきた思い出の数々は、俺にとって大切なものには変わりはなかった。俺がここまで育ってこれたのは、やはり兄がいたからこそだ。

 兄は、俺の特別だ。


「だから……だからさ。俺は元の兄弟に戻りたい。ところでさ、俺の住んでた部屋ってどうなってるの?」

「僕が家賃払ってる。そのまま残してるよ」

「そっか。じゃあさ」


 俺はごくりと唾を飲み込み、兄を睨みつけた。


「今度こそ約束守って。兄ちゃんとやったことと、恋人だったっていう記憶だけを消して。それで、普通の兄弟になろう。お願い。本当に俺のこと好きなら、そうして」

「うん。わかった。ごめんね鳴。僕、兄貴としてやり直すから。もう鳴のこと襲ったりしないから。約束する」

「指切りして」


 記憶が消えても罪は消えない。それはわかっていた。けれど、俺にはもう、それしか考えられなかった。

 小指を結ぶと、兄はこう言ってきた。


「……ねえ、お願い。最後にキスだけさせて。一度だけでいい」

「それくらいなら、いいよ」


 小指を離し、ソファに移動した。俺だって、ジュノのことをどこかで諦めきれない気持ちはあった。しかし、俺たちは兄弟だ。恋人になってはいけないのだ。

 しっかりと舌を絡ませ、長い間キスをした。


「……じゃあ、消すよ。僕の目を見て」

「うん」

「次目が覚めたら、僕は鳴の兄貴だ。さよなら、恋人のメイ」

「さよなら、ジュノ……」


 こうして俺は、恋人と別れた。

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