17 過ち
九月になった。俺がジュノと出会い、記憶を失くしてから三ヶ月だ。何の進展もないまま、季節は秋に向かおうとしている。
「メイ。今日は昼から出かけるね。打ち合わせ。夕飯もいらない」
朝食の時に、ジュノがそう言った。
「わかった。また、遅くなりそう?」
「多分。先に寝てていいからね」
今日は「条件」はナシかもしれない。一人この部屋に取り残されるのはやっぱり嫌だ。俺は適当な夕食をとってからショットバーに足を向けた。
「いらっしゃいませ」
男女の客が一組、先に来ており、パッと見たところ夫婦のように思えた。俺は彼らとは席を大きく空けて座った。まずはビール。タバコを吸うのも板についてしまって、これがないと物足りないくらいだ。
――あっ。俺から呼び出すのもアリじゃないか?
俺はユミさんに、今ショットバーにいると連絡した。二杯目のビールが尽きる頃に、ユミさんが現れた。
「やっほーメイくん。そっちから誘ってくれるなんて嬉しいな」
「今日は同居人がいなくてさ。誰かと話したくて」
自然とタメ口が出た。ユミちゃん、と呼び名を変えてみてもいいだろうか。
「その……ユミちゃん、ビール?」
「もちろん! 今日はお腹もすいてるなぁ。マスター、何かつまむもの下さい」
「じゃあ、俺も」
マスターはバケットを焼いて、食べやすい大きさに切ってくれた。ユミちゃんは今日も仕事の愚痴。しかし、そんな話も興味深い。ジュノは仕事の話はあまりしないし、新鮮だ。
「メイくんはどうするの? 就職」
「そうなんだよねぇ……。無職になって三ヶ月経っちゃった」
「前の仕事はどうして辞めたの?」
「その……人間関係が、ちょっとね」
酒はどんどん進んだ。ユミちゃんのグラスは、これ以上はグダグダするという四杯目に突入してしまった。俺も……何杯飲んだのかわからない。
「ん……タバコ、なくなった……」
俺が呟くと、すかさずマスターに声をかけられた。
「よろしければ、私が買ってきましょうか。すぐそこにタバコ屋がありますから」
「あ、済みません……ありがたいです……」
いつの間にか、客は僕とユミちゃんだけになっていた。マスターも行ってしまい、二人きりの店内。ユミちゃんがとろんとした目で僕の腕を掴んだ。
「ねえ……もうちょっと一緒に過ごしたいな」
「え……えっと……」
「ダメ?」
「ダメ、じゃないけど……」
すると、ユミちゃんの長い髪がふわりと揺れて、キスをされた。
「……ユミちゃんっ」
「マスター帰ってきたらさ。もうチェックしちゃおうか」
「う、うん……」
マスターが店に戻ってきて、タバコを手渡してきた。会計はユミちゃんが持ってくれるらしい。その間に一本吸った。
――これは、そういう流れだよな。まずいよな。うん。
俺にはジュノがいる。しかし、ユミちゃんはまさか俺が男性と付き合っているだなんて夢にも思っていないはずで。そして、俺にも一欠片の興味があったわけで。すなわちそれは、女性も抱けるのだろうか、という。
「じゃあ、行こうかメイくん」
「うん……」
ユミちゃんに連れて行かれたのは彼女の住む小さなマンションだった。ワンルームで、ジュノの広い部屋に見慣れた俺からすると狭く感じた。ピンク色のベッドシーツ。ジャスミンだろうか。お洒落なアロマスティック。むせかえるような「女の子」の匂いを感じた。
「座るとこないからさ。ベッドでいいよ」
「う、うん」
マットレスはジュノの部屋のものと比べて固かった。安物なのだろう。ユミちゃんがすぐ隣に座ってきて、俺のアゴを人差し指でつうっと撫でてきた。
「最初に会った時から、イイな、って思ってたんだよね」
「そっか……」
このまま、酔いに任せて。一度くらいの過ちなら。
しかし、デニムのポケットの中で振動し始めたスマホが俺の意識を引き戻した。
――位置情報の共有。
すっかり忘れていた。俺は震える手でスマホを取り出した。当然、ジュノからの着信だった。
「ご、ごめんユミちゃん、電話」
「うん、いいよ」
無視したところで無駄だ。俺は観念してスマホを耳にあてた。
「……ジュノ」
「今、どこかのマンションにいるでしょ。わかってるんだからね。記憶、戻ったの?」
「そういうわけじゃ、ない……」
「怒らないから早く帰ってきて」
ジュノは通話を終わらせた。
「えっと、同居人さん?」
「同居人っていうか……実は、付き合ってて」
「ええー? メイくんそっちの人だったの?」
「その、ごめん……帰らなきゃ」
俺はユミちゃんを振り切った。
未遂とはいえ、俺はジュノを裏切った。記憶を失くして、それから面倒を見てくれたジュノを。怒らない、とは言ってくれたけど、罵声を浴びても仕方がない状況だ。足取りは重かったが、あまりジュノを待たせてはならない。アルコールでふらつきながら、なんとかジュノのマンションにたどり着いた。
エレベーターの中で、鏡を見ながら呼吸を整えた。余計な言い訳はしない方がいいだろう。
「クソっ……」
鏡の中の男とは、目が合わせられなかった。
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