14 散髪

 七月の初旬に海に行ってから、八月になるまで、何事もない日常を送っていた。

 ジュノは毎日仕事。どうやら並行していくつかの案件をこなしているらしく、土日も関係なかった。俺はそれを支えるために家事に精を出したし、「条件」もクリアした。

 一人で近所に出かけてみることもした。本屋に行ったがピンとくる本はなくハズレ。俺は活字が苦手らしいということだけわかった。喫茶店にも入ってみた。タバコが吸える昔ながらのそこは、郷愁のようなものを思い起こさせたものの、果たして自分の記憶と結びつくものなのかどうか判断がつかなかった。


「あー、わかんねぇ……」


 その日の昼食。駅前で買ったたこ焼きを食べながら俺は伸びた髪をガシガシとかいていた。ジュノが言った。


「まあまあ、何度も言うけど焦らないでいいから」

「でも、もう二ヶ月だよ? 髪も鬱陶しいな……」

「記憶を失くした直後の写真は残ってるんだし切ってきたら? 僕が通ってる美容院紹介してあげる」


 食後、ジュノの美容院の担当の予定をスマホで見たところ、今日の午後に予約を入れることができたので、もうそれで行ってしまうことにした。


「バッサリ切ってくる」

「うん、楽しみ」


 美容院であれこれ指示されて、シャンプー台に座ったり元の席に移されたりするのは、割とそつなくできた。俺のぼんやりとしたイメージを伝えたところ、前髪は眉がしっかり見えるほど短く、後ろも少し刈り上げた形になった。


「わっ、メイ、スッキリしたねー!」


 そう言ってジュノが俺の首あたりを触ってきたが、くすぐったくて手を掴んだ。


「そこはやめて。なんかスースーして落ち着かないし」

「うん、カッコいい。長いのも良かったけど、切ると元々の凛々しい顔立ちがハッキリするから」

「……凛々しい? そうか?」


 自分の顔には慣れてきた。ツリ目なのは仕方がないが、願わくばもう少し善人ヅラに寄せてくれれば良かったのにな、なんて思っていた。


「そうだ、メイ。今日夕飯要らない。急に飲み会入っちゃって」

「いいよ。まだ準備してなかったし。食材明日に回す」

「ごめんね……」

「あっ、じゃあ今夜はあのバー行こうかな。俺だって美味しいお酒飲みたい」

「うん、いいよ」


 そんなわけで、三回目、いや、本当は四回目のショットバーである。長い黒髪の女性が一人座っていた。


「あっ……ユミさん」

「こんばんは。メイさん、ですよね」


 ユミさんも俺を覚えていてくれた。そんなに話したわけじゃないのに。俺はユミさんの隣に腰かけた。


「ユミさん、何杯目ですか?」

「三杯目ですよ。メイさんは最初はビールでしたっけ」

「そう。マスター、ビールください」


 自分に記憶がないからだろうか。他人に覚えられている、ということに妙な安堵感があった。記憶を取り戻して、元の生活に戻ったとしたら、ユミさんとも縁が切れるのかもしれないが、今夜、この場を共にする者同士。盛り上がろう。


「あのう、ユミさんってお仕事は?」

「あたし? 歯科助手ですよ。駅前のなりた歯科に勤めてます」

「あっ、その看板見たことある気がします」


 駅前なら何度も行っていた。すれ違っていたことがあったかもしれない。俺のビールがきて、ユミさんの飲んでいたオレンジ色のカクテルと乾杯した。


「そういえば、メイさんの仕事は?」

「あっ、俺……」


 失業中である、から始まる作り話をした。このショットバーでジュノに拾われ、今は専業主夫状態だと。ユミさんの興味はジュノに向いたようだ。


「じゃあ、そんなに長い付き合いでもないのに、家に置いてくれてるってことですか?」

「はい。いい奴ですよ、ジュノは」

「いいなぁ……。あたしも主婦になりたいですよ。仕事、本当に向いてなくて」


 歯科助手というのは、その名前の通り歯科医の補助をするらしいが、治療だけでなく、会計や予約の管理もするため、コミュニケーション能力が必要らしい。気苦労も絶えないのだとか。


「ユミさんって何歳ですか?」

「二十三歳ですよ。メイさんは?」

「えっと、同い年ですよ」


 そういうことにしておいた。


「じゃあ、国語の教科書一緒じゃないですか。覚えてます? ほら、スイミーとか」

「ああ……何でしたっけ?」


 まずい。ここから話を広げられるとまずい。俺はユミさんの空いたグラスを指した。


「もう一杯、いかないんですか? 俺も飲みます」

「どうしようかな。次、四杯目になるんですよね。そろそろグダグダしちゃうかも」

「無理にはすすめませんよ」

「よし、やめときます。メイさんに醜態見せたくないもん」


 ユミさんはチェック、と会計を求めた。マスターが計算している間、ユミさんがスマホを取り出した。


「メイさんの連絡先、聞いておいていいですか? 寂しくなったら呼びつけます」

「もう、酔ってるじゃないですか」

「だから四杯目は避けてるの。ねっ、いいでしょ?」

「まあ、はい……」


 俺の連絡先にジュノ以外の人が登録されてしまった。


「またね、メイくん!」


 くん呼びになってるし。まあ、こうした関係も悪くないか。

 俺はそれからもう一杯だけビールを飲んで帰った。ジュノはまだ帰宅しておらず、先にシャワーを浴びてベッドで待っていたのだが、眠気をこらえきれなくなっていた。


 ――今日の条件、満たしてないな……。


 そんなわけで、ジュノとセックスをしない夜になってしまった。

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