10 幸せ

 それから、俺は専業主夫のような日々を送っていた。

 ジュノが仕事の間、買い出しに行ったり、掃除をしたり。ジュノはそこまでやらなくてもいいと言ってくれたけど、俺の気が済まなかった。仕事部屋だけはジュノに自分で掃除してもらったが、他の部屋は毎日掃除機をかけるようになった。

 合鍵も作ってもらった。俺は元々持っていたキーケースにその合鍵をつけた。

 スマホで調べていると、何度も見かけるのが、ストレスやPTSDといった言葉だ。それが引き金になって、思い出せなくなることがあるらしい。俺には、口では上手く説明できない後悔のようなものがある。それが、何か衝撃的な体験が原因だとしたら。


「メイ。あまり思いつめないで。お金の心配はないし、記憶が戻るまでは絶対に僕が面倒を見るって約束するから」


 梅雨入りしてから少し経った六月の中旬。夕食後、タバコを吸っている時にそう言われた。俺もタバコに慣れてきて、しっかりと肺に入れて吸えるようになってきた。


「でも、ジュノ……いつになるかわからないよ?」

「何年かかってもいい。ふとしたきっかけで思い出せるかもしれないでしょ。じっとその時を待とう。二人で」


 力強い言葉だ。その源泉は何なのだろう。自分のことを知りたいが、それ以上にジュノのことが知りたい。ただ……男関係は秘密のままでいてほしい。

 そんなワガママを、ジュノは叶えてくれた。「条件」が終わった後のベッドで、俺に昔話をしてくれるようになったのだ。


「ジュノはどんな子供だったの?」

「内気だったよ。自分から友達なんて作れなくてね」


 ジュノの育った田舎は、子供が少なく、何人かいた同年代の子供とも打ち解けられなかったらしい。ジュノがハマったのは音楽だった。クラシックからロックまで、ありとあらゆる種類の音楽を聴いていたと語った。


「高校生の時にギターを買ってもらって。一人っきりで練習したな。自分で曲を作ってみようって思うようになるまで、そう時間はかからなかったよ」


 それから、インターネットで独学で作曲の知識を得たジュノは、パソコンで作る音楽であるDTМを始め、曲を投稿するようになったらしい。大学生になり、田舎を出て一人暮らしを始めたジュノは、そこでもあまり友人付き合いはせず、作曲に没頭したのだとか。


「それで……大学三年生の時だった。僕の曲が注目されて、レコード会社からオファーがきた。母親からは、音楽で生きていくことにいい顔をされなかったけど、就活はせずにフリーになる道を選んで、今に至るってわけ」

「凄い……才能があったってことなんだね」

「いや、運が良かっただけだよ。僕程度の才能の人はゴロゴロいる。ただ、僕は作業が早いからね。そこが強みかな」


 そうやって、音楽の話をするジュノは、どこか少年みたいにあどけなかった。謙遜はしているけれど、本当に音楽が好きなのだろう。俺はふと、思いついた。


「ねえ、ジュノってギター持ってるってこと?」

「うん、仕事部屋にあるよ」

「……聴いてみたい」

「まあ、メイの頼みなら」


 ジュノはアコースティックギターを持ってきて、寝室で弾き始めた。リクエストはしていない。何の曲だろう。イントロが終わると、ジュノが歌い出したので驚いた。


 ――歌声までもが美しいなんて。


 歌詞は英語だった。俺は英語が苦手のようで、意味はわからなかったが、「アイラブユー」のフレーズが入っていたので、恋愛の歌だとは気付いた。


「……ふぅ。まあ、こんなもんだよ。久しぶりに歌った」

「ジュノ、ジュノ、凄かった! 歌手にもなれるよ!」

「ひいき目……耳? 買いかぶりすぎ」

「俺、この歌好きになった。どういう内容の曲なの?」

「えっとね……」


 ジュノはスマホを操作して、歌詞を表示させた。


「ごめん、俺英語読めないみたい」

「翻訳を探してみよう」


 一つのブログ記事に辿り着いた。俺は息を飲みながらそれを読んだ。


「ねえ……ジュノがこの歌を歌ってくれたのは、つまりそういうこと?」

「そうだね。僕が欲しいのは言葉じゃない。でも、メイはさ。もう既に僕に与えてくれてるよ」


 身体に触れて。抱きしめて。決して離さないで。


「俺……俺さ。記憶が戻っても。どんな記憶だったとしても。ジュノと恋人でいたい」

「僕だって、それは望んでる。でも、記憶が戻った時のメイの意志を尊重するからね」


 そして、俺はジュノの胸に飛び込んだ。


「わっ……メイったら」

「ねえ、もう一回、しよう?」

「もう深夜だよ?」

「お願い」


 欲望は留まるところを知らなかった。俺はジュノに教えられた技術を使い、毎晩のことで知り尽くしたジュノの弱いところを攻めた。ジュノはよく、俺に可愛いと言ってくるけれど、ジュノだって可愛いのだ。


「ごめん……やりすぎたかな、ジュノ」

「いいんだよ。僕はメイのこと、どこまでも受け止めたい」


 荒く息を吐くジュノの背中をさすり、今ある幸せを噛み締めた。

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