第10話 満ちていく月
秋の空気が深まってきた。風にはほのかに冷たさが宿り、物悲しい初秋の気配を感じさせる。
美月は制作に打ちこんでいた。展覧会開催まで残り一週間を切った。展覧会のテーマの一つである「月照らす夜」に掛けた新作の制作に没頭する。
科学館前公園で別れたきり、あれからテルとはなかなか連絡がつかない。こちらも忙しいので気に病む暇もなかったが、返ってくるメールによそよそしさを感じると美月は思った。だからこそ美月は告白のタイミングを計りかねていた。
けれども美月は決めていた。自分の気持ちを伝えよう、と。
伝えることの大切さは伸が身をもって教えてくれた。伸が美月に勇気を与えたのだ。
あれからも伸のアプローチは続いている。応えられないのなら言わなければならないが、伸が巧みに返事をさせない。
玉砕するかもしれない。
実際、伸も美月も同じことを恐れていた。
でも伝えなければ前に進めない。テルに受け入れてもらえなくても、自分は進まなければならない。これは私の[[rb:問題 > テーマ]]だから。
美月は美月なりの手段で伝えればいい、と考えた。私は画家だ。伝えたいことを表現する[[rb:職業 > プロ]]ではないのか。
画家の矜持にかけて、伝えないで済ますことはできないと悟ったのだ。
美月の制作は佳境に向かっていた。
輝之は伸の応答に動揺したが、時が立つにつれ、美月を奪い返すことを考えるようになっていった。
欲しいなら取り戻すしかない。幼い頃、俺とミツキは一心同体だったはずだ。あんな男に横から奪われてなるものか。怒りが失望を上回り、輝之に勇気を与える。
だが気持ちは逸るものの、具体的な手段が思いつかないでいた。
あれから俺はミツキとまともな連絡を取れずにいる。心では伸からミツキを奪い返すと誓いながら、行動に移せずにうだうだと過ごしている。
あの約束。
9月29日の中秋の名月まで一週間もない。
ミツキは一緒に見ようと言ってくれたではないか。
約束の日に想いを伝えようか。報われなくてもいい。いや、本当は報われたいと願う。でも報われなくても、ミツキに俺の想いを知ってほしい。
それでもダメならーー。
その先は考えない。今は手に入れることだけを考えればいい。
美月は自分の制作を続けながら、伸のモデルもきちんとこなしていた。伸への敬意だった。
「目に光が宿ったね。生き生きとしている」
伸は絵の具を溶かしながら美月に話しかける。
「君を描けて僕は幸運だ。この絵は僕の代表作になるだろう」
実際、伸は美月から恋する女の色香を感じていた。最近は何かを悟ったらしい力強さも加わった。この美しい女性をキャンバスに留められることに心から感謝した。恋の相手が自分でないことが残念だったけれども。
「休憩しようか。休憩したら美月は自分の制作に戻るといいよ。」
筆を洗って絵の具皿の縁に置く。
「それならコーヒーを淹れますね」
美月が立つ。
「僕が淹れよう」
「先輩の手は絵の具でべちゃべちゃでしょ」
伸は自分の指を見る。
「これは失礼した。では頼む」
コーヒーを持ってテーブルに戻った時、美月は伸の絵を覗いて思わず感嘆した。確かに伸の代表作になるだろうと直感する。美月はモデルが自分であることを誇りに思った。
だが絵に見惚れていたせいで、コーヒーカップを倒してしまった。
コーヒーは伸が選んだドレスの裾を見事に染めた。ドレスが染みになる。
「すみません。着替えてから作業するべきでした」
慌てて美月は謝った。
「構わないさ。美月のスケッチもデッサンもたくさん残した。汚れたくらいなら頭の中で修正して描けるよ」
「先輩」
「僕は天才だからね」
優しく許す伸を、美月は改めて尊敬した。
「パーティに来ていく服が台無しになってしまったな。新しいドレスは僕が買ってやろうか?」
伸が選んで美月が買い、伸のモデルが着ることとなった服。
「このドレスは先輩の絵のためにあったんですね」
ドレスは自分で選ぼう。美月はそう思った。
その日の夜中、美月は布団に潜り込んで輝之にメールを打った。気の抜けた返事しか来ないかもしれないけれども。
テル。展覧会の初日にパーティをします。
月が天頂に昇ったら抜け出すから、馬池公園の高台で待っていて。
短い文面だ。10年前もこの間も、月を見る約束をした。テルが来るかは不確かだったが、美月はそれでもいいと思った。
私が行動したいだけ。
テルが来なかったら、一人でお月見をしよう。
それから、伸先輩にも返事をしなければ……。
そのまま美月は眠ってしまった。美月は10年前の満月の夢を見た。
伸はアトリエで、美月をモデルにした自分の絵を眺めていた。
この短い間、毎日モデルという口実で美月を見つめることがができた環境に、伸は満足していた。
そして予感した。美月を手に入れることはできない、と。
決心した目をしていた。自分の意思を通す決心を。
その美しい瞳を観察することができた幸せと、愛した女性が手に入らない寂しさの間で揺れ動いていた。
「イケメンで天才でも、好いた女にモテなければ何にもならない」
美月が残していった汚れたドレスを、伸は愛おしく抱きしめた。
輝之は美月からのメールを受信した。
10年前の約束だ。自分のために抜けてきてくれるという。輝之は決心したことを思い出す。この日にミツキに告白しよう。
何と言えばいい?
好きだと言えば、ミツキは俺を選んでくれるのか?
あの男から取り戻すために、俺はミツキに何をしてやれる?
夜空のことと地理のことしか分からない専門バカの俺が、芸術家の感性がわからない俺が、ミツキに何を与えてやれるだろう。
自分の想いを押し付けるだけなのではないのか?
輝之は悶々とした夜を過ごした。
三人の想いが交錯しながら時が過ぎ、9月29日がやってきた。
中秋の名月のその朝は、見事な秋晴れになった。
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