第9話 思い出の約束
「10年後も一緒に満月を見よう」
テルとの約束は些細なやりとりから交わされた。
10年前。
テルと私はまだ大学生だった。大学4年の秋。就職先が決まり、卒業制作に力を入れていた頃。
私は芸大生で、テルは地理学を専攻する大学生だった。私は芸大専門の予備校講師を、テルは難関大学の塾講師のアルバイトをしていた。お互いの塾は近所にあったから、よく仕事終わりに待ち合わせてはご飯を食べたり、夜の街に遊びに出かけたりした。小さい頃のように、私たちは二人でツルんだ。
ある時、テルは所属する天文部の観測会に誘ってくれた。中秋の名月を望遠鏡で観察するのだという。月のクレーターがしっかりと見れるよと、テルは笑った。
「スケッチもできる?」
「たぶん大丈夫じゃないかな。月明かりで明るいから。」
テルは天体観測を、私は月と夜空のスケッチを楽しみにした。
当日はお月見を楽しもうと集まった群衆にもみくちゃにされた。
「こんなに明るいのに星も観れるのね。」
人を寄り分けながら、小さなスケッチブックに月と星を写す。
「一等星だからな」
「キレイ」
テルは黙って私の顔をまじまじと見つめた。
「ミツキ」
「うん?」
「10年後も一緒に満月を見よう」
10年後。10年後もテルの隣で過ごす姿を思い浮かべる。思い浮かべて照れ臭くなる。
「ええ?私は星を眺めている方が好きだなぁ」
思わず顔を逸らした。嬉しかった。
「ミツキは自分の名前に誇りを持たないの?」
「なんで?」
「美しい月、って、あの月はお前のことだろう?」
ちょっかいをかける悪ガキのように笑う。
「自分を眺めてうっとりするなんて、恥ずかしいじゃない」
「気にしすぎだろ」
笑われた。
その日からしばらくは、卒業制作に追われてテルと会えていなかった。
卒業した伸先輩が大学に遊びに来て、制作のアドバイスをくれた。先輩は画家として生計を立てながら、私がアルバイトをする塾に正規の講師として働いていた。私も来年度からはそこで働く予定だ。
テルと会えていないことを少し寂しく思ったが、お互いの課題が終わるまでだと、軽く考えていた。それに、私には満月の約束があった。10年後もテルのそばにいる、あの約束。
けれど観測会を最後に、テルは消息を絶った。
一度だけ、電話をかけてきたことがあった。二人の将来についての話だと思っていたのに。
共通の知人に聞くと、卒業論文のためのフィールドワークに出かけているという。訪問先は告げなかったらしい。最近は大学にも顔を出していないと教えてもらった。塾講師をしながら大学院に行くつもりだということだけわかった。
そんな話、一度もしてくれなかったな。
私は寂しく思ったけれど、しばらくはお互いに忙しいからそんなものだろうと気を取り直した。
今度会ったら軽くデートにでも誘ってみようか。飲み屋じゃなく、ちゃんとしたレストランとか。そんなことを考えていた。このまま10年も会えないとも知らずに。
その頃、俺は逃げるように東京行きの新幹線に乗っていた。表向きはT大学への転籍手続きと新しい職場探しだったが、恋に破れた逃避行の方が俺にとっては真実だった。
観月会でのミツキはいつも以上に可愛かった。星を見て綺麗だと言う彼女に、つい見惚れてしまったことは内緒にしておこう。
この先もずっとそばにいられたなら。そう思って、10年後の約束を提案した。ミツキは茶化したけれど、照れながら笑っていた。
ミツキ。
ミツキ。
この想いをどう表現したらいいのだろう。あいつは俺の人生の大半を占める。かけがえのない存在だ。
急に抱きしめたらあいつは怒るだろうか。それともいつもの調子を装って好きだと伝えるのが先か。
俺は浮かれていた。卒業論文のための調査が終わったら、あいつを誘ってどこか旅行にでも連れて行こう。いい雰囲気になったら、そこで気持ちを伝えるんだ。
ミツキはたぶん驚くだろう。けれど受け入れてくれるはずだ。きっと。
だが、それは実現しなかった。実現させられなかった。
俺は目撃してしまったのだ。
名前の知らない男とミツキが楽しそうに並んで歩く姿を。二人で冗談を言い合っている。
悪いと思ったが、俺は思わず聞き耳を立てた。隠れて後をつける。俺は男が大学の先輩らしいことを知った。
男は何かにつけてミツキとの距離を縮めようとしていた。触れそうな距離まで迫っている。馴れ馴れしい。俺は苦々しく感じた。嫉妬が湧き上がる。
だがミツキも楽しそうであった。二人で絵の話をしている。専門外の俺には難しいことはわからなかった。二人だけに通じる話題を続けていた。そうして芸大の敷地内に入って行ってしまった。
俺は二人に声をかける機会を逃した。
その日の夜、俺はミツキに連絡した。確認を取りたかったのだ。
「なぁ?」
「なあに?」
「おまえ、気になってる奴とかいンの?」
軽く聞いてみたが、内心は混乱していた。あの男の顔が思い浮かぶ。頼むから違うと言ってくれ。
「…どうして急にそんな話になるの?」
「いいから。協力できることがあるかもしれないだろう?」
心にもないことが口をつく。
「協力」
ミツキはしばらく間を空けてから、決心したように、
「…いるよ」
つぶやいた。
「どんな奴だよ!?」
俺は反射的に詰問した。
「…私のそばにいてくれる人。話が合って楽しいし、ずっとそばにいようって言ってくれた」
あの男とそんなところまで関係が進展しているのか?
この時の俺は、ミツキが俺のことを語っていたとも考え付かず、あの男のことだとばかり思い込んだ。
「恥ずかしいから、もうこれ以上言わせないでちょうだい。テルだってわかってるでしょ?」
わからない。わかりたくない。
ミツキが何か言ったが、もう俺には届いていなかった。
翌日、俺は担当教授に進学先の変更を相談した。
「秋野君のレベルなら、T大の方が合っているよ。よく決心したね」
それまで散々、首都圏の大学院を薦められていたのを断り、地元のN大を希望していた俺が進路変更を申し出たので、教授は手放しに喜んだ。
そうして俺はミツキを避けながら卒業し、新しい環境に身を移した。
その後、10年の月日が流れるとも考えず。
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