第8話 すれ違い

 綾香が輝之に回した腕を更に縮めたから、ほとんど二人は恋人同士が腕を組んでいるような格好になった。

「私たち、大学からの付き合いなの」

「いや、ちがうちがう。ちがうから!」

 輝之が慌てて反論する。綾香に回された腕を振りほどく。拍子で綾香がきゃっ、と小さな声を出す。

「付き合ってるとかそういうのじゃないんだ。大学が同じだっただけ。たまたま赴任先で再会したんだ。今日は観月会のチラシ配りを手伝っただけだし。本当に、……」

 喋れば喋るほど、言い訳がましく聞こえる自分に輝之は焦ったが、うまく言葉が紡げない。

「とにかく、ちがうから!」

 美月にだけは誤解されたくなかった。

「うん」

 美月は無表情で答えた。

 綾香が輝之を好いているのは確かだ。細長い手足に小さな身長の綾香は、それだけで可愛らしい。その上、美人だった。

 輝之は否定するが、まんざらでもないのではないのか。美月は自分を見失いそうになりながら逡巡した。

 私はテルのことが忘れられないけれど、テルはどうなのだろう?会いたかったと返してくれたのは幼なじみとしてで、それ以上に他意はなかったのではないのか?

 暗い考えが頭の中を巡る。

(僕なら好きな女性を放っておいたりしない)

 伸の言葉がよぎる。10年もいなかったのは、放っておいてもよい相手だったから?私はテルのことが好きだけど、テルは??

 険しい表情で輝之と綾香の二人を見つめる。沈黙が場を支配する。

「美月。モデルが眉間に皺を寄せないで」

 伸が美月をなだめるようにささやいた。

「今日はこの辺で切り上げようか。スケッチもできたことだし、明日からはアトリエで描こう」

 道具を片付け始める。

「まだアトリエの仕事が残っているだろう、美月?今日は帰ろう」

 伸は心ここにあらずの美月を連れて駐車場に向かった。


 美月のアトリエでの仕事は遅々として進まなかった。開催まで二週間を切っているというのに、新作は半分も進んでいない。

「美月?」

 伸が美月のアトリエを覗く。

「筆が進まないようなら、モデルを頼めないかな。心ここにあらずでも構わないから」

 伸のアトリエでじっと座りながら、美月は夕方のことを考えた。

 もしテルが他の女性を好きになったら。考えただけで狂いそうだ。テルが他の女性と腕を組んで、他の女性とデートして、抱きしめて、それから…。

 そこで考えは停止した。涙が出そうになるのを歯を食いしばって我慢する。今はモデルの仕事中だ。でも。

 伸は美月を描きながら、彼女の心情を思い遣った。と同時に、美月がこれほど悩むということは、あの男は美月に自分の気持ちを伝えていないのだろうと予想した。

 口説かなければ、落ちるものも落ちない。

 ずっと口説けなかった自分が言えたことではないが。あの男が行動を起こしていないのなら、自分にもチャンスがあるのではないか。

「美月」

 泣きそうな目をしたモデルは、自分を写す画家に視線を合わせた。

「抱きしめてもいいかな?」

 予想外のことを言われた美月は、怪訝な顔になって伸を直視する。

「ダメです。…突然どうしたんですか?」

「思考が飛んでいるようだったから、驚かせてみたんだよ」

 テルのことばかり考えていたのを見抜かれていた。美月は恥ずかしくなって目を逸らす。

「まぁ、本気で聞いてみたんだけどね」

 不覚にもどきりとした。この人はこういうことを抵抗なく言ってのける。

「もう遅いからお終いにしよう。明日も授業はあることだし、家でゆっくり休むといい。僕は仕事の続きがあるから送ってあげられないけど、気をつけて帰りなさい」

 伸はアトリエから美月を送り出した。この時、美月がモデル用のドレスとともに携帯電話を置き忘れたことに、二人とも気づかなかった。


 帰り道、お腹が空くのを無視して美月は馬池公園に寄った。

 高台から月を見上げる。輝之の顔が思い浮かんだ。

 テルは。

 テルは私のことを好きなのだろうか。幼い頃から一緒だったから、当然に好きなものだと思い込んでいた。けれどそれは女性として向けられる感情なのだろうか。

 美月は考えた。そして大切なことに気づく。

 私は。

 私はテルに自分の気持ちを伝えたことがなかったのではないか?伸先輩があんなにはっきりと想いを口にしたような言葉を、私は伝えていない。

 伝えていない。いないけれど。

 好きと言う言葉では表せないほど、テルへの想いは強い。言葉では表現できない気持ちの伝え方を、私は知らない。伸先輩のように真っ直ぐに伝えられたなら、どんなにいいだろう。

 この時になって初めて、美月は告白した伸の勇気の重さを実感した。

 もし断られたら。テルがあの女性を選んだら。怖い。怖くて言い出せない。絵という表現方法で伝えるという生業をしているのに、言葉では何一つ伝えられそうにない。

 自分の不甲斐なさに美月は落胆した。



 一方の輝之はというと、研究室で論文を執筆しながら逡巡していた。学問のことではなく。

 今日の戸谷の態度は不味かった。いや、問題は戸谷ではない。自分がもっと早く伝えておけばよかったのだ。美月とは幼い頃からずっと一緒だったから、少なくとも嫌われてはいないはずだと思ってきた。だが。

 だが、その先に進みたいのなら気持ちは伝えなければならない。伝えると決心したはずだ。

 美月に拒絶されたら。

 そんなことは百万回も考えた。断られることを恐れて進めなかったこの10年をまだ続けるつもりか?伝えなければ先に進むことができない。輝之は自分を鼓舞し、奮い立たせる。

 美月に会いに行こう。会って話をしよう。

 美月に教えてもらった連絡先に電話をする。コール音が鳴る。出ない。もう一度電話をかける。15コールほどして、電話が繋がった。

 だが、出た相手は美月ではなかった。

「はい、山岡美月の電話です」

 男の声。

 いや、立花伸の声だ。なぜこの男が美月の電話に出る?しかももう22時を回っている。こんな時間に。

 考えたくもない想像が脳裏をよぎる。脇から汗が流れる。嫌な汗だ。

「……」

 輝之は無言で返す。そこに美月がいるのだろうかと考える。

「もしもし?」

 伸の怪訝な声が響く。

「すみません、間違えました」

 ガチャリと電話を切った。


 ミツキは。ミツキは付き合っていないと言っていたけれど。

 先ほどの決心は萎み、落胆が全身に広がっていく。

 照れていただけなのではないのか?


 美月はあの男と付き合っている。

 輝之はそう誤解した。

 

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