第7話 交錯する思惑
「すまない」
視線を落として伸は美月に謝る。
「突然こんなことを言って、驚かせた。すまない」
美月は伸の瞳を見据える。視線を外しはしなかった。
「今すぐ返事が欲しいとは言わない。ただ、僕のことも見てほしい。頼む」
切なげな懇願が美月の胸に響く。
「君が幼馴染を好いているのはわかっている。それでも僕は君が好きだ。君が欲しい」
こんなに余裕のない彼を見るのは初めてだった。美月はそれでも何も答えられないでいる。伸はそれを察した。
「今は何も言わなくていい」
「先輩…」
伸が自分を慰めるようにふっと笑う。整った笑顔だ。
「ひとつ、お願いをしてもいいかな?」
「なんでしょう?」
「君を描きたい」
「え?」
「君を描かせて欲しい。ずっと描きたかったんだ。大学の時から」
「そうなんですか」
「言いにくいんだが、こっそりクロッキーやスケッチはしてきたんだ。でも本画にしたい。いいだろうか?」
「そのくらいのことなら」
美月は了承した。落ち着いた物言いとは対照的に、伸の瞳は泣きそうに潤んでいた。本気のお願いなのだ。断れるわけがない。
「ありがとう。忙しいところにすまないが、一日15分でいい。モデルになってくれ」
「わかりました」
「モデル代はきちんと出すよ」
「そんな。いいです。ボランティアで」
「そうはいかない。仕事だと思って、真剣にやってほしい」
「真剣にはやりますけど、お金は本当に結構です。素人モデルですし」
「素人でも、僕には本気で描きたいモデルなんだ。受け取って欲しい」
伸は譲らなかった。美月は渋々ながら了承した。
美月と再会した後の輝之は浮かれていた。美月のあの笑顔を思い浮かべる度、何をやっても手が止まった。研究室の片付けは進まなかったし、危うく書きかけの論文を全消去しかけた。ただ気がかりなのは、連絡先は交換したもののお互いに忙しくて会えないでいることだった。
「輝之君」
論文をハードディスクとUSBの両方に保存していると戸谷綾香が声をかけた。
「今日、天文部の連中が集まってるの。よかったら来ない?」
「ぜひ」
天文部は戸谷が言っていた通り大きなサークルで、違う大学の学生もやってきていた。
「10月からここで教える予定の秋野です。俺も星空が好きで、学生時代は天文部だったんだ。このあいだは近くの公園でアルタイルを観察した」
美月のことを考えながら。
「そうですか!あの星は夏の星だからそろそろ入れ替えですね。秋の星座がもう見えていますよ。望遠鏡でも覗けます。それに今月はスーパームーンがあるから楽しみですね。中秋の名月といえば…」
ニコニコと話すのはオタク風の男だ。星が本当に好きなのだろう。皆は星の話に熱中している。輝之も面白そうに耳を傾けた。
「輝之君」
「ん?」
「頼みたいことがあるの。中秋の名月の観測会のチラシを刷ったんだけど、枚数が結構あって。配るのを手伝ってもらえるかな?」
「構わないよ。どこへ運べばいい?」
「街中。そこら中で配って観月会の宣伝をするの。連中は星の話に夢中だから二人で回ることになりそうねぇ」
困ったというニュアンスで言うが、嬉しそうな笑顔だ。
「輝之君と出かけられるなら嬉しい」
綾香は本音を告げた。
塾での伸は、いつも通りに接してくれた。だからかえって美月の方が気を遣ってしまった。
「美月先生!」
持田紗也が美月を呼ぶ。珍しいことだ。彼女の担当教官は伸だからである。
「絵を見て欲しいんですけど」
「もちろんよ。でも立花先生に頼まなくてもいいの?」
「今日はあなたがいいの」
含みのある声で言う。上目遣いでこちらをじっと観察している。やりにくい。
「そうねぇ、首と体の繋がる部分のデッサンが少し狂ってるわね。反射の色の色彩感覚は素敵だと思うからこのまま続けて」
紗也はメモを取る。問題児だが、真面目だ。
「ねぇセンセ、伸先生が誰を好きか知ってますか?」
唐突な会話に喉の奥が鳴る。
「今日は特にお熱よ。その人ばかり見てる」
伸はいつものように振る舞っているはずだ。
「あたしだってゲイジュツカの卵だもん。観察してればそれくらいわっかってるから」
紗也はデッサンをひったくって伸のところへいく。
「伸センセイ、美月センセがデッサン狂ってるって。どうやって直したらいーい?」
甘えた声で伸に突撃する。伸は美月の方をチラリと見たが、やれやれと気を取り直して紗也に教授する。
授業を終えて、美月と伸は帰り支度をした。これからモデルの仕事だ。テーマは夜空の下の女性だという。「美月」という名前にピッタリなお題だろう?と伸は笑う。
科学館のある公園に行く。科学館の前に大きな広場があり、そこでは天体観測ができるようになっている。高台にあるからこの街を一望できる。
「この辺りでいいかな」
伸はイーゼルを立てかけ、スケッチ用のキャンバスを固定する。本画はアトリエで仕上げるそうだが、下地となるスケッチは本物の夜空の下で行いたいと言う。
「そこのベンチに座って、美月」
石のベンチはヒヤリと冷たい。空を仰げば東から月が浮かんできた。空は段々に深みを増し、夜の訪れを予感させる。
キャンバスに鉛筆の擦る音がサラサラと聞こえてくる。美月は伸が見繕ったパーティドレスを着用している。伸がそれで描きたいと頼んだのだ。
伸が美月の全身を見つめた。熱を帯びた眼差しだ。モチーフとしてなのか、女性としてなのか、美月には判別しかねた。もちろん伸は女性として見つめていたのだけれども。
「科学館にも図書館にも美術館にもチラシを配ったから、当日はたくさん人が来てくれるわ、きっと」
科学館前広場で戸谷綾香が輝之に話しかける。
「そうだな」
俺は出席できないけれど、と心の中で独りごつ。
美月との約束の日、美月はパーティを抜け出してきてくれると言った。できることなら二人きりで月を眺めたい。科学館前広場では人が多すぎるだろう。馬池公園がいいだろうか。あそこは地元の住民しか利用しないはずだ。
歩きながら、ふと絵を描く男を見つける。伸だ。モデルを描いている。こんな時間に仕事とは熱心な男だな。しかし付き合うモデルも大変だろうと、モデルに目を遣ると、
「ミツキ!?」
思わず叫んだ。
「テル!?」
美月も輝之に気づく。伸も気づいたようだ。
「何してるんだ?おまえは描く方が専門じゃなかったのか?」
「モデルの仕事をすることになって」
あいつのか。あいつは何を考えているんだ。美月を奪おうとでも言うのか。輝之の胸に闘争心が湧き上がる。
「次の個展に出す作品ですよ。下心はありません」
ないわけないだろと、伸も心で応戦する。
「輝之君?」
綾香が割って入る。片腕に余ったチラシを抱え、もう片腕をするりと輝之の腕に回す。
美月はそれを見逃さなかった。
「テルとお知り合いですか?」
美月が綾香に問う。テルの彼女だろうか?親しそうだ。胸の辺りがモヤモヤする。
綾香は「テル」と呼び捨てるこの女が、輝之と親しい関係にあることを瞬時に見抜いた。
「付き合ってます。私たち」
回した腕をさらに縮め、にこりと笑って悪びれることなく言い放った。
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