第6話 再会
コポコポと、コーヒーを淹れる音。白い湯気が立ち上がり、茶色い粉に泡が浮かぶ。伸の丁寧な所作は一つの映像作品を見るようだ。
「どうぞ、熱いうちに」
伸は三人分のコーヒーをテーブルに並べ終えると、さり気なく美月の隣に座った。美月は先ほど買ってきたらしいお菓子の箱を開け、来客用の皿に移している。
「突然にお伺いして申し訳ありません」
輝之が詫びる。アトリエの2階で三人が向き合う。
あの後、三人の異様な空気に戸惑う画廊の主人に連れてきてくれたお礼を述べ、帰りの代金を断るのを押し付けてタクシーを見送った。
陶芸家と版画家は1階にいるが、気を遣ってくれているのか、自分たちの制作に集中しているようだ。
「改めまして、立花伸と申します」
伸が挨拶をする。
「秋野輝之と申します。今日はお時間を取ってくださり、ありがとうございます。実は山岡さんを探しておりましたら、こちらに辿り着きました」
「美月を?」
伸が美月と呼び捨てにするのは彼なりの牽制だ。
「はい。ご存知かどうかわかりませんが、私とミツキとは幼馴染でして。私が仕事を理由に10年間この町を離れていたものですから、お互いの消息が分からなくなっていたのです」
「そうだったのですね」
お前の話なぞ聞きたくないと内心では思いつつも、慇懃な笑顔は崩さない。
「テル、私も探してた。元気そうでよかった」
美月が嬉しそうに微笑んだ。輝之はほっとした表情を浮かべ、伸は顔をしかめたが、すぐに柔和な笑顔を取り繕う。
「失礼ですが、お二人はご夫婦なのですか?」
美月にではなく伸に問うのは、美月の口から肯定の言葉を聞きたくないからだ。
「そう見えますか?」
伸は答えなかったが、
「やーね、違うわよ。同じ塾の先生同士なの。大学も一緒だったのよ」
美月が否定する。輝之は安堵のため息をそっと漏らしたし、伸は悲しげな表情を見せた。だが気を取り直し、
「僕たちはうまくやっていますよ。絵を描くもの同士、感性が似てるのかな」
攻撃の一手を差す。
「あら、でも私は伸先輩ほど絵も上手くないし、画家としても中途半端だけど」
美月が謙遜をする。
「そんなことはないさ、君の絵は魅力的だ」
君の絵は魅力的だ。そんな言葉をさらりと吐くこの男は、美月のことが好きなのだろう。輝之の胸に黒い何かが湧き上がる。
「すみません、仕事場に押しかけて。私は今日はもうお暇させていただきます。…ミツキ、この後、会えるか?」
「残念ですが美月君は展覧会用の作品を仕上げるのに追われています。ご用件は後日に…」
伸が制止するが、
「少しくらいなら大丈夫。伸先輩、ちょっと抜けますね。先輩も仕事溜まっているでしょう?私たちに構わなくてもいいのよ。今日は買い出しに付き合ってくれてありがとう」
美月が跳ね除けた。
美月と輝之は馬池公園の高台の脇にある池の畔を散策した。夕方の馬池公園には若いカップルや友人同士のグループがちらほらといて、皆、楽しそうに遊んでいる。
二人は10年ぶりに会ったというのに、ぽつりぽつりとしか会話が続かない。昨日まではあんなに会いたがっていた二人だが、いざ会ってみれば言葉にならない感情が二人の胸を膨らませた。
「なぁ?」
「うん?」
「お前、あの男と付き合ってンのか?」
軽口を装ったが、恐る恐る聞いてみる。
「まさか。私では釣り合わないよ。先輩は完璧だもの」
完璧。
「…あいつのこと、好きなのか?」
何も答えない。
「あいつはお前のこと好きだろう?気づいてンのか?」
捲し立てるような聞き方になってしまったが、もう取り戻せない。美月は沈黙している。冷たい風が吹き抜ける。
「美月?」
「会いたかった」
「えっ?」
振り向いて美月の目を見つめる。強い風が髪を乱す。
「私は輝之にずっと会いたかった。待ってた」
泣きそうな顔をしている。いや、もう泣き始めている。涙が夕日でキラキラと輝いているのを眺める。美月の顔を見つめた。
「悪かった。俺もだ。俺も、会いたかったよ。ずっと」
本当にずっと。毎日毎日唱えていた。会いたい、と。こうして会えた今、何をどう伝えればいいのか戸惑っている。それは美月も同じだった。
「テルは満月の約束を覚えている?」
「大学生の時にした約束だろう?覚えているよ。もちろん」
「一緒に見ようって言ったよね」
あの約束を美月は覚えていてくれていた。
「ああ。今月だろ?」
「うん。」
「ミツキはパーティがあるんじゃないのか?」
なぜそれを知っているのだという顔をする。
「展覧会のポスターに書いてあった。ミツキのことも、そこで見つけた」
「そうなのね、ありがとう。パーティは少し抜けてくるから、一緒に月を眺めたい」
「うん。わかった。俺も予定を空けておく」
美月は満面の笑顔を見せた。10年前の懐かしいあの笑顔だ。ずっと焦がれていた笑顔。途端に抱きしめたい衝動に駆られるのを堪える。
「じゃあ私、制作の続きがあるから戻るね。次はいつ会える?」
連絡先を残して、美月は去っていった。
美月がアトリエに戻った時、伸は嫉妬で狂わんばかりの勢いのまま筆を走らせていた。はたからは鬼才が制作に没頭しているようにしか見えなかったが。
2階の美月のスペースから絵の具の皿を重ねる音がして、伸は美月の帰宅に気づいた。
「美月?戻ったのか?」
「あ、はい。戻りました。今日は本当にありがとうございました」
伸のスペースにわざわざやって来て、お辞儀をする。
「いや、そのことはいいんだ」
伸が何か言いたそうな、含んだ目を向ける。美月を見つめ、切なげな表情を見せた。
「美月は彼のことが好きだろう?」
「えっ」
どきりとする。
「いつも幼馴染の話をしていたじゃないか」
「そうでしたっけ」
「いなくなって寂しいと言っていた」
「それは幼馴染ですから」
本当はそれだけじゃないけれど。
「彼がいいのか?10年も放っておいた男だぞ」
私は放っておかれたのだろうかと考えを巡らせる。
「それは…テルにも事情があったと思います」
たぶん。
「…僕なら放っておかない」
「え?」
「僕なら好きな女性を放っておいたりしない」
伸は決心した瞳で美月を見据える。後戻りはできない。
「…僕では駄目なのかな?」
僕では駄目なのかな。
伸の言葉が脳でこだまする。美月は伸をじっと見つめ返した。
「君の隣にいるのは、僕では駄目なのかな?」
美月は何も答えられなかった。
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