第4話 伸

 毎日会っているのに想いは叶わない。君に届けと願いながら、言葉に出すのをためらっている。

 僕は君を見ているけれど、君は僕を見ていないと知っているから。


「美月?聴いているか?」

 上の空で自分の世界に入り込んだ美月は、ぽかんとした目をこちらに向ける。

「何か気になることがあるのか?」

「あ、ごめんなさい。ちょっと月のことを考えてました。すみません、続けてください、先輩」

 月?出品用の作品のことだろうか?

 それとも。

 それとも、またあの男のことを考えていたのだろうか。

 あの男。美月の幼馴染だという男。

「わからないことがあれば、都度聞いてくれ。この企画書を渡しておくから目を通しておいてほしい」

「はい、ありがとうございます」

 企画書を受け取って、ペラペラとめくる。細い指先が絵の具で汚れて、爪の間まで入り込んでいる。そんな指を愛おしいと感じるのは惚れた弱みだろうか。


 美月とはおよそ15年来の付き合いになる。難関芸大に現役で合格した女の子がいると聞いて、興味本位で見に行ったのが始まりだ。

 1年生のアトリエは、受験に受かった開放感からか、もう描かないと言わんばかりで欠席する者も多く、がらんとしていた。出席しても真面目に描く者も少ない。

 そんな中、真っ直ぐにモチーフに向かう女性がいた。

 その横顔は凛として、深い黒檀の瞳は静かにモチーフと絵とを往復していた。まだ荒削りのデッサンではあったが、構図と色彩から彼女の清廉な感性をうかがわせた。


 美しいと思った。彼女を描きたいと思った。描いてあの瞳の奥に近づけたなら、と。

 あの時、僕は彼女の何に惹かれたのか。漠然としていた。モチーフとして惹かれたのか、一人の女性として一目惚れしたのか。

 ただ近づきたくて、何かにつけて美月に話しかけるきっかけを探っていたのが、今では懐かしい思い出だ。

 美月は次第に「立花先輩」から「伸先輩」と呼んでくれるようになった。願わくは「伸」と呼び捨ててもらっても構わないんだが。


 僕は美月にとってただの「同僚」で「先輩」で、親しい「友人」でしかない。そして悔しいが、美月の心にあの男が居座り続けていることもわかっている。

 充分にわかっているつもりだ。美月はあの男を想っている。見ていて壊れそうなほど。だが、僕が彼女の心に触れたいと思うのはいけないことだろうか?

 僕とていっぱしの作家だ。感性を磨いてきた。美月が自分を見ていないことなど見抜ける。

 それでも。


 「イケメン」も「長身」も「天才」も、本質を理解するこの女性には通用しない。そもそも本質を理解しない女性などに興味はない。我々はそういう職業で、そういう[[rb:性分 > さが]]なのだ。

 美月が抱えている膨大な思い出。あいつとの。僕には到底敵わない。幼い頃の美月の中に、僕は存在しない。

 ても。ただ一つ、望みがあるとすれば。


 僕もこの女性との時間を重ねることだ。

 だからこのアトリエを借りている。本当は一人で一棟を借りられるほどには稼いでいるんだが、美月との接点を無くしたくなくて、ここにいる。彼女を手に入れるまでは。

 あの男は自分から姿を消した。理由は知らない。だが土俵を降りたのだ。僕は降りるつもりなどない。


「そうそう、パーティは正式なものだから、それなりの格好で来てほしい。正装とまでは言わないが、間違ってもジーパンとTシャツはやめなさいね」

 注意しなければラフな服装で出席してしまいそうなほど、美月は世の中に疎い。絵とあの男への想いで生きてきた。

「伸先輩はタキシードを着るんですか?」

 吹き出しそうになる。

「なぜそういう発想になるかな、君は。背広で行くよ」

「だって似合いそうだと思って」

 嬉しいことをさらりと言ってくれる。


「でも私、結婚式に来ていく服しか持ってません。しかも数年前の友人の」

「それなら見繕ってやるから、今度の休みに店にでも行こうか。ついでに食事も済ますのはどうだろう?」

 誘ってみて子どものようにドキドキする。誘われているとわかっているだろうか。

「いいですね。それなら新色の絵の具もみたいなぁ。あとイーゼルが壊れかけているから買い直さないと。画材屋さんも行きましょう!」

 デートが買い出しにすり替わった。


「さて、話もひと段落したし、僕は制作の続きをするよ。個展も控えているし」

 グループ展の次は個展の予定を入れている。作品は何枚あっても足りないくらいだ。

「伸先輩は仕事虫ですね。お金は大事だけど、そんなに稼いでどうするんですか?」

「仕事は好きだよ。稼ぎたいのは好きな女を養うため。作家の女房だからと苦労はかけたくないし、その人にはその人の好きな仕事をしていてほしい」

 言い終えて、しまったと気づく。

 美月は僕が別の女性を好いていると勘違いしたのではないか。

「先輩って、やっぱりイケメンですね!顔だけでなく内面も。これはどんな女性も寄り付くわけだワ。なんだかこちらが照れくさくなってきました。」

 どんな女性も、って誰のことだ。君が寄り付かなけりゃ意味がない。

「お茶、淹れてきますね」

 ルンルンしながら水場に向かっていく。こちらの気も知らないで、呑気な奴だ。


 新しく買った道具を用意して自分のアトリエへ向かう。

 このアトリエは2階建てになっており、1階を版画家と陶芸家が、2階を日本画家の僕たち二人が使っている。1階部分は吹き抜けになっており、2階にいる僕たちと会話することができる。水場は1階にも2階にもあるので、制作に便利な作りとなっている。

 アトリエは日本画で使う[[rb:膠> にかわ]]の臭気と、陶芸の土が混ざった独特な匂いが立ち込めている。版画家の銅板を削る規則的な音が響く。


 2階に上がろうとして、陶芸家に声をかけられた。

「美月ちゃんは鈍いから、ちゃんとはっきり好きって伝えないと意識しないわよ。」

 面白いものを見るような目で笑っている。僕は動物園の猿じゃないぞ。

「そりゃ君、伸さんもわかってるよ」

 手を止めて版画家が応援に入る。

「僕だってわかってますよ」

 わかってるさ。美月には言わないと伝わらない。だが僕の気持ちが伝わったとして、受け入れてもらえる勝率が限りなく低いのだ。

「他の女性だったらもっと簡単に伝えられたのにな」

 思わずに漏らす。二人はおやおやという顔をする。

「皆さんお茶が入りましたよ。何の話ですか?」

 四人分のお茶を持って美月が近づいてくる。

「美月にはそのうち教えてあげるよ」

 君が好きだってこと。

「何よもう。皆んなだけわかる話なんかして」

 膨れながら、自分のお茶だけを持って2階に上がって行ってしまった。美月が淹れてくれたお茶を飲んでから、僕も彼女を追いかけた。

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