第3話 美月
会えない人がいても日常は否応なしにやってくる。会いたい人がいても会えない毎日が押し寄せて、嫌でも現実の生活に向き合わなければならない。
テルのいない生活は隠し味のない料理のようで、物足りない何かを私に訴える。
「美月先生?」
声をかけられて、はっと我に返る。握っていた色鉛筆が膝の上に転がる。
「デッサンのための観察というよりは、モチーフそのものに心酔しているみたいですね。そんなにその梨、食べたいですか?」
可笑しさを堪えて軽やかに笑う、長身細身の柔和な男が声をかける。
「立花先生」
顔を上げて彼の目を見る。いたずらっぽい微笑みだ。冗談らしい。
「ちゃんと集中して描きなさいって言いたいんでしょう?」
「さもありなん」
私の勤め先は、受験を控えた学生たちを指導する芸大専門の予備校だ。大手と違ってここは個人経営なので、描き切れないほどの課題を課したり、厳しい言葉の講評を行ったりはしていない。受験直前を除いては。塾長がそういう方針なのだ。
その分、学生たちものんびりとしている。受験生としてそれでいいのかと突っ込みたくなる時もあるが、元来、芸術は感性を育てるもの。受験課題を追う忙しない実技ばかりに囚われることなく、じっくりと将来を見据えて自分の世界を育んでほしいとも思う。
「まあ、そうは言っても美月先生は芸大現役合格の秀才、対して僕は2浪の末にやっと受かった凡人。僕には到底理解できない何かを見ていたのかな?」
くすくす笑いながら私を持ち上げるが、そう言う彼は何を隠そう難関芸大の首席卒業を果たした本物の天才だ。
「天才にそんなこと言われても嬉しくありませんよっ。」
ハハハと笑って立花先生は去っていった。
私は取りかかっていたお手本用のデッサンを続けた。傾いた日差しのおかげで美しい影が現れるモチーフを絵に留めるには、朝のうちに終わらせなければならない。
しがない雇われ労働者の私は、目覚まし時計に叩き起こされ、今日もいち企業戦士として働く。なんてね、大げさな物言いだけど。でも実際、芸大を出て自分の絵を描きながら生活費を稼ぐのは並大抵のことではないのだ。
「おはようございまぁーす」
寝癖を直しながら、あくびをこらえて挨拶をする他の講師も出勤してきた。
生徒たちもぽつりぽつりとやってきて、石膏像をセッティングしたり、イーゼルを出したり、鉛筆を削ったりしている。
いつもの朝だ。
「そういえば山岡先生、グループ展の企画ってどうなりました?」
お昼休み。突然問われて、ツナサンドをかじりながら何のことやらと首を傾げた。
「ああ、ごめん。山岡先生にはまだ話してなかった」
立花先生が腰を上げて向こうから来る。手にはメロンパン。
「山岡先生には終業後に話すつもりなんだ。ね、美月、この後の時間を僕にくれるよね?」
美月、と呼び捨てる時、立花先生は「同僚」から「先輩」に立ち位置を変える。
「伸センパイ、それは必ず予定を空けろっていう圧ですよね」
こちらも砕けた口調に変わる。学生時代から親しいいつものやり取りだ。
「僕は一度も美月に圧をかけたことはありませんよ。じゃあ就業後、いつものアトリエで」
しっかり一方的に約束を取り付けた伸先輩は、残りのメロンパンをコーヒーで流し込み、さっさと学生たちのもとに戻っていった。
就業後、私はアトリエに寄った。ここは私が借りているアトリエで、ほぼ毎日通っている。伸先輩も利用している。私と伸先輩の他に二人の作家がこのアトリエをシェアしている。一人でアトリエを借りるにはお金がかかるし、何かと物入りだ。アトリエをシェアすれば費用を抑えられるし、お互いの作品にとって刺激にもなる。
ここは新鋭作家たちの巣窟だ。私が新鋭であるかは別としても。私と伸先輩は日本画を、他の一人は版画、もう一人は陶芸を専門としている。
展覧会前になるとアトリエに泊まり込むこともある。家にも帰るけれど、寝に帰っているだけと言ってよい。
家と言っても祖父母はとっくに亡くなっており、あの懐かしい家があった場所は建物を取り壊して売りに出された。
両親は定年直前の海外赴任が決まり、今はシンガポールに住んでいる。そういえばついこの間、観光地の写真がプリントされたハガキが送られてきてたっけ。どうやら居心地が良いらしく、定年後も戻ってくるつもりはなさそうな文面だった。
だから私はというと、祖父母の家も両親の家も引き払って、気ままな独身貴族の一人暮らしを謳歌している。といっても絵ばかり描いているので、ほとんど滞在していないマンションだ。
「ごめん、遅くなった」
伸先輩が帰ってきた。家でもないのに「帰ってきた」と表現するのは可笑しいけれど、私たち店子はこのアトリエに来ることを「帰る」と表現し合っている。
「おかえりなさい。残業でしたか?」
生徒の作品の添削でもしていたのだろうか。
「ただいま。いや、参ったよ、持田に捕まっていた」
苦笑いしながら鞄を置き、中から企画書らしい書類を取り出す。
持田紗也は生徒の一人だが、少々問題児だ。なぜかといえば、伸先輩に恋している。いや恋というよりも執着に近いのかもしれない。
伸先輩は学生時代からモテたが、今も変わらずモテモテの眉目秀麗のイケメンだ。この上、芸術に関しては天才ときてるから、モテないわけがない。
「イケメンで天才は大変ですねぇ」
「イケメンで天才でも好いた[[rb:女子> おなご]]からモテなきゃ何にもならないよ。」
「イケメンと天才は認めるんですか」
茶化して言えば
「さもありなん」
当然だ、って、これもいつもの調子で言うものだから、本気なのか冗談なのかわからない。
「ところでグループ展のことなんだが」
「はい、お昼休みに突然聞いたので何のことやら、と」
「それは悪かった。出品者が突然の長期入院で欠けてしまったんだ。そこで美月にピンチヒッターを頼みたいと思ってね」
「ピンチヒッターですか」
補欠ということは、本来はこの展覧会のレベルに私は達していなかったのだろうか。
考えてちょっぴり悲しくなるが、実力の世界なので仕方がない。伸先輩は私なんぞよりもずっと先をいく作家だ。実力も行動力も段違いなのだ。
「ただ、開催までにひと月もないんだ。準備期間が短い」
「それは、今まで描いた絵で何とかしますし、1点くらいなら新作も出せるかと」
「そうか。それは頼もしいな」
ふわりと微笑む笑顔が美しい。持田紗也はこの笑顔にやられたのだろうと察しがつく。
「開催っていつなんですか?」
「9月29日。中秋の名月に掛けて開催する。作品もそれに合わせたものを出して欲しい。
初日は深夜までレセプションパーティを開く予定なんだ。フランスからアルチュール・マルタン先生を招く。先生は高名な方だから好評をもらえたら次に繋がる。パーティは日の入りと共に始めて深夜にまで及ぶと思う。観月の会も兼ねている。家には帰れない覚悟でいて欲しい。」
ひと月もないとは急な話だ。これから徹夜が続くだろう。
いや、そうじゃない。
中秋の名月?
心臓が高鳴る。
「どうかな?僕は決して悪い話ではないと思う。むしろチャンスだ」
9月29日。中秋の名月。約束の日。
パーティ。マルタン先生。チャンス。
頭の中でテルとの約束と展覧会が混在する。
今、先輩は帰れないって言った?
先輩の言葉は遠のき、10年前のテルの顔が脳裏に浮かんだ。
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