第2話 一番星の願い

 想いが叶うのならば、あいつが欲しい。


 好きな女と分かれて10年が経とうとしている。

 別れた、なんて都合のいい言い方だ。別れたわけではない。俺がこの町からふらりといなくなっただけなのだから。挨拶もなく、別れすら告げず。勝手気ままに。 


 美月は俺の初恋で、最愛の人だ。

 たぶん一生。もう会えなくても。結ばれることがなくても。


 星を眺めて願い事を唱えれば叶う、なんて物語のような淡い期待にはもう流されないと決めた。

 俺には一生忘れることができない人がいる。ただその事実のみを持って生きようと決めた。この先どんな女性と出会い、時をともにしても、忘れられない人がいるのなら潔く覚えておこうと。


 それでも叶うのなら。

 俺はあいつに会いたい。10年前の約束を果たしに行きたい。

 会ってどうするって、そんなのは決まっているだろう?

 今度こそあいつに伝えるのだ。可能なら抱きしめたい。美月は俺の一番なのだと教えたい。

 そのために俺はこの町に戻ってきた。10年ぶりに。


 南の空を仰ぐと、わし座のアルタイルが誇るように輝いている。今日は上空の風が強いらしく、彦星で有名なアルタイルは、チラチラと瞬きながら俺たち地上の生物を見下ろしている。

 

 あいつの彦星は誰だろう。


 馬池公園のベンチに座って、ぐるりと一通り空を眺めた後、高台の方を見遣った。ちらほらと人がいるようだ。星を観察している人もいるし、仲間同士で騒いでいる連中もいる。だが辺り一帯に広がる秋の気配は、あちらもここも同じだろう。今日は満月ではないが、都会の数少ない星が瞬く空の中で、十六夜の月はのんびりとたゆたっている。


 そういえば、あいつは星を見るのが好きだったな、と思い出す。

 俺が勇気を出して誘った満月の約束も、ミツキは「星を見る方が好き」と茶化しやがった。こいつめと憎らしく思ったが、照れた後ろ姿がなんとも可愛いかった。

 だが思えばあの時、本当に俺たちは約束をしただろうか?

 ミツキは顔を背けてしまって、約束に「うん」とも「いいえ」とも言わなかった。照れてるのだとばかり思い込んでいたが、勘違いだったのだろうか。

 気づいた途端、あの約束が約束として効力を持っているのか、怪しくなる。不安が広がる。もしかしたら俺だけが熱を上げて一人相撲しているのかもしれないという焦りが込み上げる。


 俺とミツキが出会ったのは保育園児の頃だ。お迎えのバス乗り場が同じ、ご近所同士だった。最初は保護者同士が仲良くなったのが始まりだったろうか。

 俺の家は母子家庭で、昼間はばあちゃんの家に預けられていた。ミツキの家は両親とも揃っていたが、共働きで忙しく、これまた祖父母の家に預けられていた。

 そんな環境だから、ばあちゃん同士が仲良く、その流れで俺たちは一緒に遊ぶことが多かった。

 ガキの頃はあいつのことを子分とも妹分とも思っていた。まぁ、遊び仲間ってやつだ。俺はあいつを近所のあちこちに連れ回し、そこで出会った兄さんや爺さんと親しくした。


 俺たちはいわゆる幼馴染で悪友というやつで。大人になってもレンアイとかそんな雰囲気にならなかったような気がする。俺は望んでいたけれど。


 いざあいつに俺の気持ちを伝えようとすると、どうにも居心地の悪い気分になった。

 大切すぎて、失えない。有り体に言えば、振られるのが怖かった。だから先に進めず、想いを抱えたままズルズルと青春時代を過ごし終えてしまった。それが不味かったが、若気の至りだ。


 風が出てきた。この時期の風は生ぬるく湿っていて、心地良いとは言い難い。肌にべったりとまとわりつく空気は、行き場のない自分の想いの重さのようで、どんよりと澱んで晴れることがない。


 ふと、ミツキもこの空を眺めているのだろうかと考える。

 渋々ながら付いてきてくれた天文部の観測会で、何ひとつ星の名を覚えなかったあいつ。それでも夜空を眺める楽しみだけは見つけたあいつ。ミツキは絵を描くことが得意だったから、スケッチブックを広げて夜空を描き写していた。

 そんな日々も遠い彼方となった今、あいつも空を見上げて想いに耽ることがあるのだろうか。


 夜空を見上げたなら、俺を思い出してほしい。あの星を見て思い出すのが俺であればいい。 

 星から名付けられた輝之という俺の名を、美月があの彦星と重ねてくれたなら。


 いや。これはもちろん願望だ。

 10年前ですら恋人未満だったのに、ただの幼馴染をいつまでも思い出すなんておかしな話だ。そもそも俺がふらりとこの町を捨てたのではなかったか。


 本当は出て行きたかったわけではなかった。

 ただあいつが他の男と仲を深めていくのを見ていられなかった。あの男とミツキの関係がどこまで進展してるのかなんて聞けなかったし聞きたくもなかった。

 聞けないくせに、幼馴染として二人を見守ることは到底できなかった。


 ミツキと離れて10年。彼女の現在を知るのは怖い。だが会いたいという切望が彼女を再び失うかもしれない失望を押し除けた。だから俺は戻ってきた。


 戻ったはいいが、問題があった。

 時が迫っているのだ。急がなければならない。

 約束の中秋の名月までひと月を切っているというのに、俺は美月の居所を知らない。


 あいつの祖父母の家はすでに訪ねたが、引き払った後で別の家が建っていた。両親の家はもとより知らない。幼馴染だというのにと笑われることを承知で、恥を忍んで友人にも聞いてみたが、知らないという。引っ越したのかもしれない。

 10年の月日は長い。この年月でミツキが誰かと結婚して子ともを産んでいても何の不思議はない。


 再び強い不安が襲う。焦燥感に囚われながらも、決心したことを取り戻そうと深呼吸をした。たとえあいつが他の男を選んだとしても、俺はミツキに伝えると決めたんだ。後戻りはしない。


 ベンチから立ちかけたその時、遠くの方でふわふわと歩きながら公園を出ていく女性が視界に入った。月を見ているのだろう、顎を傾けながら上の空で夜の道を進んでいく。

 あぶないな、と思ったのも束の間、心臓が跳ねた。


「ミツキ?」


 その横顔は求めてやまない女性のそれと酷似していた。

 俺は停止した。

 だが意識が再生した時には、女性は闇夜に吸い込まれていた。

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