月と星が交わる夜空の果て

檀(マユミ)

第1話 満月の約束

 星を見ていた。

 生ぬるい風がまだ残る夏の終わり、町はずれの馬池公園の高台から、名前の知らない一番星を見上げた。

 近くの草むらからは微かに虫の音が聞こえてくる。晩夏の空。

 アイツだったら。と、考える。

 アイツだったら、あの星の名をすぐに当てられるだろう。アイツは空に関しては異常に詳しい奴だ。聞く気になれないうんちくも漏れなくついてくるだろう。

 アイツのことを思い出し、ふとあの約束に思考が移る。

 昔の約束だ。他愛もない、そしてもう実現し得ないだろう約束。


「10年後も一緒に満月を見よう」


 中秋の名月を二人で眺めていた時にアイツが言った言葉だ。

 何だか照れ臭くて、

「私は星を眺めている方が好きだなぁ」

 なんて茶化したら、

「ミツキは自分の名前に誇りを持たないの?」

 と混ぜっ返された。

 「美月」なんて名前を親からもらったお陰で、私は月をまじまじと眺めるのが妙に苦手になってしまった。美しい月を眺めるなんて、自分にうっとりしているようで恥ずかしいじゃないか。

 そんなことをアイツに言ったら「気にしすぎ」の一言で笑われたっけ。


 小さな約束。遠い昔の。しかも約束とも言えないかもしれない。だって私は「うん」とも「いいえ」とも返事をしなかった。照れ臭くて。

 月を見る約束をしたのに星を見ると思い出すなんて、倒錯してるわね、と思う。でも、年に一度の中秋の名月にしか思い出さないほど私は薄情じゃないし、彼のことを綺麗さっぱり忘れているわけでもないのだ。


 輝之は私の初恋で、最愛の人だ。

 たぶん一生。もう会えなくても。結ばれることがなくても。


 たとえどんなイケメンが現れても(でも私面食いじゃないわね)、たとえどんなナイスミドルが現れても(でも私オジ専でもないわね)、おそらくこの先ずっと、私は彼を忘れることはできないだろう。それほどに、彼の存在は私の中で大きい。大きいと自覚している。

 と同時に、彼にとっての私とは一体どんな存在なのだろうと思案する。

 幼馴染?(もちろん)

 悪友?(そうだろうとも)

 特別な存在?(たぶん)

 恋しい人?(それはどうだろう)

 なんてぐるぐる考えていると、私ってよほど業の深い女なのねと情けなくもなってくる。


 風が出てきた。吹き荒れるというほどではないけれど、早く家に帰れと急かされているようだ。晩夏の風は何かと忙しい。

 公園を出て一本道をのんびりと歩くと、先ほど見ていた星とは別に、月がぽうっと浮かんでいた。今夜は満月ではなかったはずだが、月は私の足元をほんのりと優しく照らしている。

 ふと、輝之のようだ、と思った。

 見失うこともなく、天上から毎夜そっと行く先を照らす月は、美月と名付けられた私ではなく、輝之だ、と。

 いや、むしろ。でも。

 いや、むしろ、でもやはりあの月は私なのかもしれない。輝之の思い出に囚われて、満ちては欠ける、どっちつかずの私自身の姿なのかもしれない。


 輝之とは保育園の頃からの付き合いだった。

 だった、と過去形なのは、今はもう彼とは音信不通だから。付き合っていて別れたとか、そういうのじゃなくて、放浪癖のあるテルがふらっといなくなってから10年が経とうとしている。 

 付き合うことすら無かったっけ。そういえば。

 私たちはいわゆる幼馴染で悪友というやつで。大人になってからもレンアイとかそんな雰囲気にならなかったような気がする。私は望んでいたけれど。

 テルと全く会わなくなって、それでも月日が流れて、私はこの秋で32歳になる。


 10年。

 社会人の10年は光陰矢の如し。早いなんてものじゃなく、日々に忙殺されているうちにいつの間にか一年が巡り、そしてまた一年が巡るといった具合。あっけなく過ぎた。

 それと比較すると、テルと過ごした幼少期や学生の頃は思い返すと濃厚な時間だった。


 幼少期のテルは実に活発だった。私たちは兄妹のようにツルんで遊んだ。テルは「冒険」と称しては近所をよく徘徊し、様々な開拓と発見を繰り返した。テルは兄貴分気取で、でも妹を労わる優しさで私を連れ回した。

 その中でもテルが見つけてきてくれた廃棄本の処理工場に私たちは色めき立った。

 廃棄本の工場にはいつも若い兄ちゃんが一人いて、黙々と作業をしていた。工場といっても小さな廃屋になりかけた倉庫の一角だった。

 工場の兄ちゃんと仲良くなったテルは、工場に卸されている漫画の付録を手当たり次第持って帰ってきてくれた。ある時はその工場に連れて行ってくれて、兄ちゃんと顔通ししてくれた。おかげで私は学校帰りに寄り道してはバックナンバーとなった漫画を読み漁ったり、付録を組み立てて遊んだりした。

 兄ちゃんはいつも無口だったが、淡々と仕事をこなした。廃棄される本を積んでは束ねを繰り返し、時々、私たちが喜びそうな雑誌や付録を見つけると、優しく笑ってこちらによこした。

 私たちの間にはある種の仲間意識のようなものが芽生えていた。


 近所の古いアパートに潜り込んだこともある。本当は不法侵入なのだけれど。

 錆びた鉄骨の階段が付いている古びた木造の2階建家屋。そっと足音を立てずに一段一段上る。と、そこにはしわくちゃの、髪は無いのに髭がぼうぼうの爺さんが住んでいて、夏のその日は玄関のドアを開けっ放しにしていたので、私とテルの二人は思わず爺さんと目が合ってしまった。

 「しまった」とテルの後ろに隠れた私だが、テルは果敢にも爺さんに「こんにちは」と話しかけたのだ。話し相手を探していた爺さんはそれ以降、私たちが訪ねてくると、玄関口でお茶を出しては小一時間、話し込んだ。

 爺さんの話はなかなかに長かったから、ほとんど覚えていない。爺さんは東北の外れの生まれだが、職がなくそこそこ都市部のこの町にやってきた、とか、そんなことを言っていたっけ。


 工場の兄ちゃんも、アパートの爺さんも、いつの間にか私たちの日常から消えていった。あの人たちは一体どこに行ってしまったのだろうか。

 成長とともに遊び場が変わり、それと同時に兄ちゃんとも爺さんとも会わなくなって久しい。

 自然と会わなくなる人がいる一方で、テルのように長い時間をともに過ごすことになる人もいる。いつの間にか忘れてしまう人がいるのに、いつまで経っても忘れられない人もいる。


 テル。

 テル。

 輝之。

 どこにいってしまったの、テル?


 思い出したとて何ともならない現状。

 何もできないのに繰り返し繰り返し思い出し、思い出しては記憶の淵に泡のように消えてはくれない、想い。

 テルという実態はここに無いのに、想いだけが先走り、その想いが私を縛り続けて10年が過ぎようとしている。

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