草創章 068 10/13 010

惰性から鈍った人は己を研ぎ直す術を知らない。姉はまさにその人だ。未来像というものが、彼女には無い。ただ漠然と同じような日々が続けばいいと、本気でそう思っている。今朝だって、今日が最後の当番なのに、次自分が買い出しに行くときの話をしていた。きっと世界が終わると告げられても、姉は今日と同じことを感じて、考えて、語らうのだろう。終わりが否応にも目を背けがたくなる、その瞬間まで。

遠い日の思い出。小さなことで、姉と喧嘩した。本当は私に非があったのだけれど、ついかっとなって

「ほんとの姉さんじゃないくせに」

と言った。心にもないことを、言ってしまった。こういうとき、姉が上手に怒れないのを私はいくつかのぎこちない経験を通して知っていた。姉は何も言い返さなかった。ただ瞳に冷たい哀しみの色を湛えて、諭すような目つきを私に据えた。

「ヒキョウよ」

姉が黙っているのが、ではない。姉の世界に私も生活しているという、そんな当たり前のことに改めて慄いたのだ。彼女の中に護られて平穏な暮らしを享受していた私が、姉の人質に取られたようなつもりになったのだ。


 フィリアにとって姉とはすなわち日常の保証であり、不文律であった。裏を返せば、それだけでしかなかった。ひとたび日常が瓦解すれば、姉の能天気加減は彼女の冷笑の標的となった。皇国への転学と家族バーダの解体が宣言されてより、フィリアは一転して姉を軽蔑するようになった。姉妹の通好はそのままに、彼女の立場を暗に引き下げることに成功したのである。さりながら、フィリアはこの軽蔑がどこまでも薄っぺらでしかないことに気づいてもいた。薄っぺらであるが故に、彼女の冷笑はいとも容易く姉を突き抜けて、見るも居た堪れない様々のことをフィリアの胸に投影した。病気をして眠れない夜に一晩中背中をさすってくれた姉の掌は、そのひとつであった。フィリアから金品を強請ろうとした街の不良に立ち向かってくれたこともあった。物心つかないうちは姉におぶわれて、どこまでだって行けたものだ―いつの間にかフィリアは、そういったかけがえのないほろほろまで浅ましくも嘲笑ってしまうのであった。姉への思慕が確認される程にフィリアは自分が嫌いになった。フィリアの信ずるところでは、姉妹の好悪は必ず一定最大限の収量に帰着された。フィリアが喜ぶとき、彼女は姉の悲しみを想わずにはいられなかった。姉が悲しむとき、その様はフィリアに残酷な刺激を与えた。すれ違いは姉妹に宿命づけられていた。姉との共栄はこの前提たる原則にあらゆる方面から背叛していた。そこに自他の尊厳など望むべくもなかった。結局フィリアは勉学に己の活路を見出した。然しここでもフィリアのした努力は彼女に驕りの炎を蘇らせた。フィリアはその熱にじりじりと焦がされ、一層のこと悶えなければならなかった。

蓋し西通りで姉に見つかったのは偶然でなく、姉妹の何かしらの交感が引き合わせたのであろう。しまった、と思うよりも、裏切られた、という思いよりも、まずフィリアの目を引いたのは姉が一人でないということであった。嫉妬。自分はそんな単純な感情に振り回されたりしない。だから、フィリアの取った行動は他ならぬ彼女自身を驚かせた。フィリアは逃げたのだ。姉から、姉妹にまつわる構図の、その全てから。

 兎角フィリアの心は姉への相反する感情で千々に乱れていた。その姉が後ろから血相を変えて走ってくるのだから、フィリアは仰天するあまりどうすればいいか分からなくなった。然し本当に取り乱していたのはエルナのほうであった。

「フィリア、フィリア。大丈夫だったの。ねえ、大丈夫ねえ」

涙の滲んだ顔を見せまいと深くうずめながら、フィリアの両肩をわしと掴んで確かめるように交互に撫で下ろす。

姉さんレーリエ、私は大丈夫だから。どうか泣かないで」

泣いてない、と鼻にこごもった声で返事がある。白々しくも、フィリアの心はそれまで無意識に秘めていたある種の快味に気づき始めていた。ところが童着の襟首に引っかかったエルナの薬指が引き攣れでも起こしたようにぶるぶる震えているので、姉には姉のほうでまた別の事情があったことが察せられて、甘酸っぱい昂奮はただ苦いだけの心配に取って代わられた。

「お前、見た?海が青白く、ぱあっと光るのを」

「海は見えないわ、姉さんレーリエ。山に登りでもしない限り、陸から海は見えやしないのよ」

フィリアが言い聞かせるのを聞いて、エルナは気持ちの鎮静した顔つきになった。

「じゃあ、何もなかったんだね」

「ええ、何にもなかったわ―何かあったの?」

「ないよ。お前のことを考えすぎて、おかしくなったみたいだ」

帰ろう、と言ってエルナが差し出した手を、フィリアは遠慮がちに指先だけ握った。


「久しぶりだねえ、こればっかりはとっても嬉しいよ」

「別に私は―」

―本当に、いつぶりだろう―自分の体つきが姉のそれに並びつつあることに、フィリアは今更ながら気付かされた。

「泊まるって言って、観に来るつもりだったのね」

嘘じゃないけど。

「ヒキョウだわ」

エルナの心臓が弾みを打ったのが、微かに手の中に伝わってきた。

「まあ、そのことはお互いに気まずいから、これ以上つつくのはやめようよ」

姉さんレーリエが行かなかったら、私は来なかったわ」

「何、拗ねてるの」

「別に」

フィリアの右手が解け落ちる。数歩行き過ぎてエルナも立ち止まった。どうしたの、と言いかけて、フィリアの口が何か訴えようとしているのに気づいたのか、微動だにしなくなる。フィリアは決心のために大きな息を吸った。

「姉さんの愛を損なうことが、私は何より恐ろしかった。この感情は好きという言葉以外では言い表せないと思う」

―私はエルナ、エルナ・グラーシュ。よろしくね、フィリアさん―姉のものらしくて、そうでない声が頭の奥で言った。

「私は姉さんを知りたかった。そうすることで私たちの愛は完全なものになると確信していた。私は成長して、ようやく姉さんと同等の資格を得た」

―違う、その人は憎い人だ。仇をうってよ、お母さん―弟なら言いもつかない台詞を、テオが、テオのようで、その甘くこごもった感じがあまり真に感じられたから、フィリアは身震いを抑えずにいられなかった。

あどけない声二つ、何れもフィリアの遠ざけた人たちが彼女に極めて近しいところで邂逅し合意し言葉を揃える。

「でも、とうとう姉さんが解らないまま、姉さんは私の姉さんでなくなってしまう」

―憎い人!憎い人!―

なればこそ、私と姉さんがバーダでいられる最後の夜に、私は姉さんを侵そう―

「ねえ、姉さんレーリエ

フィリアは精一杯皮肉に微笑んだ。

「あなたはどうして、生まれてきたの?」

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