草創章 068 10/13 009

 桶に幾杯も水が運ばれてきて、松明が消された。不定の眠りから醒めたように人々はめいめいの活動を再開した。柱を囲って談合する実年の職人たちがいた。腕を絡めて歩く若い男女があった。同じ賑やかなのでも先程までのように一体の意識が狂っているのとはまるで趣が違った。テオと同じくらいの男の子が気乗りしない様子で母親に手を引かれていった。男の子はまだここに居たいのだとみえて、歩調を早めたり緩めたり繰り返して握られた手の緊張を計っていた。一方母親はそんな足掻きなどあえて気づかないふりをして息子の手を引っ張り続けるのであった。男の子が反対の手に鷲掴みにしたブリキ細工の兵隊人形が、彼の歩くはずみで駄々を捏ねるように手足をばたつかせた。

それで、何となく、帰ろうという雰囲気になった。

「あれっ」

通りの反対側をつま先立ちで覗こうとしてエルナはひょこひょこ跳ねた。見慣れた感じにばさっとした茶髪がそう遠くないところで動くのを見つけたのだ。

「どうした」

ディズィートリが怪訝そうな顔をした。

「フィリアがいる、かもしれない」

「一人で?」

「多分」

「本当にお前のところのブレイズなら、放っておくのはまずいんじゃないか」

イラハがそういうと、マアトとリセも彼に頷いた。

「間違いないの」

リセが背伸びをして、額に手をかざす。

「そっちじゃないよ。ほら、今いちばん前から奥へ引っ込んでった帽子の男の人がいるでしょ。あの人の左、頭だけ見えてる」

帰ろうとする人たちで列がごった返し始めて、たくさんの背中の向こうにふと垣間見えたフィリアの顔はこっちを向いていた。目が合った、と思う間もなく彼女は踵を返して人混みに紛れてしまった。

「私、追いかける」

駆け出そうとしたエルナの腕をイラハが掴む。

「集合場所を決めとこう、な、ディズィートリ」

ディズィートリは別段長く考えるふうもなく、

「ここに集まろう。役場の庁舎は街で二番目に高いんだ。きっとよく目立つだろ」

と言った。

 エルナは走った。街の顔が見知らぬ土地のそれのように表れて幾度となく足をすくませたが、仲間の姿が眼界より失せてからは乗りかかった船という気持ちがまさって、かえって彼女をはやらせるのであった。海へ続く大通りを北へ北へ走る。かといって行くあてに見当のついた訳でもなく、辺りを注意深く見渡すのは怠らなかった。平時エルナの身体は動物のようにしなやかに、自在に動いた。然し弾力をかえさない平坦な石畳の上ではそうもいかなかった。あっという間に息が上がった。何より無鉄砲に駆けずり回っている焦燥が、彼女を着実にすり減らしつつあった。たまらず手を膝に置いて、全力でも満ちきらない荒い息をついた。頭蓋がきうと締め付けられて、やり場のなくなった血液がこめかみにどくどくと疼いた。しばらく動けないでいるうちに圧迫感は緩まって、堰をきって流れ込む血潮を肝脳が貪り飲んでいる、そんな感じがした。頭が次第に明瞭になる。エルナが辿り着いたのは街が海に向かって落ち窪んでゆく最後の石段の踏み面であった。下った先には第九の関係者たちの合同宿舎が整然としていて、そのさらに向こうには円形会堂が電気の光を薄くはかれて、夜の静けさに沈んでいる。こんなところに階段があるなんて、知らなかった。いつもはオテマさんがいる東の通用口を使っているから。大通りで買い物をする時だって、こんなに端まで来たことはなかった。

エルナは立ちつくしていた。帰途についた大人たちの賑やかな声が彼女のことなど眼中にないというふうに側を弛みなく通行した。その流れに押されて、一歩足を踏み出す。重心が前に投げ出されて、右足が宙を掻く。エルナの歩幅を受け入れた石段は陽に焼けたのか亀裂が走って、彼女の小指ほどの太さのそれに色々な影が滲みついている。

「兄さん」

少女の、唯一思い出すことのできた台詞を真似て、そんなことを口にしてみる。エルナを追い越していった背中たちがそっと震えて、その姿勢のまま型どられた蝋人形のように動かなくなった。

全てはほんの数刹那のうちに起こった。青白い電閃が横薙ぎに閃いてエルナの目を眩ませた。するとその辺りから建物も、人も、物体の形は輪切りになって、層状に重なったそれらが厚みのわからないくらい扁平にされ、炎の橙色を帯びた。海が光ったのだと思った。然るに、海は壁の向こうにあって見えない筈であった。変態がいよいよどうにもならないところまで近づいて、エルナはなす術もなくその場に蹲った。瞼をきつく瞑って、両方の耳を覆って、悪夢が自分に食い入るのを防ごうとした。気持ちを落ち着けて立ち上がれるまでに一生分の神経を消耗した気がした。幻。そんなまさか、という気持ちが頭の中で譲らなかった。

軍套姿の三人組が少年のように戯れ合いながら道を帰ってきた。両橋の男たちの軍套は褐色をしていた。もう一人のは黒色であった。黒套の男が殴るふりを見せたときに、これまた避ける真似をした男の肘がエルナの頭を掠めた。

「おっと、ごめんよ」

「いえ、お構いなく」

半ば放心していたエルナはやっとのことでそう返した。去り際に反対の端の男が真ん中の男について軽口を叩き、男たちはげらげらと笑った。

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