草創章 068 10/12 008

 ハイラーテ先生の傘は、役に立った。街の入り口には憂懼したような目を光らせている大人なんてのはいなかったけれど、エルナたちのような分かりやすいなりで足を踏み入れるのはやはり迂闊に思えた。イラハやマアトはハイラーテ先生の機転がこの為に働いたものと合点して、ずいぶん感心していた。然し、人ごみが濃密になるとそんなに惧れてばかりもいられなくなって、街の子どもたちには傘をさしているのがちらほら見受けられたけれど、エルナたちのような不作法の身では人を縫って歩くこともままならないので、取り敢えずは畳んでおくことにした。被さるもののなくなった空を仰ぎ眺めて、エルナの疑念はここで晴れた。昼間エルナが目撃した柱は家々をおいて等間隔に地面に立てられて、それぞれの先を結び渡す綱は僅かにしなうて、吊りカンテラの灯をたわわに稔らせていた。それはどことなく幻惑的で、整理の行き届いた光景であった。

「区役場のある大広場へ行こう」

とディズィートリが言った。彼の目当てはどうやらそこにあるらしかった。

 ただでさえ人の多い所にそれを目掛けて集まって行くから、右も左も分からない、頭がくらくらするような雑踏になる。ここにきてマアトの特別の能力が発揮された。

「はい、どうぞ」

逸れないようリセと繋いでいたエルナの手に冷たいものが触れる。振り返ればマアトが、果汁ジュースの小瓶を握らせていた。

「わあ、ありがとう」

払うよ、と袂に手を伸ばしたエルナを止めて、いいよ、おまけだから、と言ったかと思うと、またすうと人に呑まれて消えた。他人に迎合しやすく、常に流されているくらいな性分のマアトが現実で人の流れを泳ぐのを苦にしないのは、水媒のあることをいちいち気にしないためかもしらなかった。針金が巻かれた蓋に浅く歯を掛けて押し上げると瓶の底まで突き抜けるような透き通った清涼が鳴って、ひんやり粒立った柑橘の香がエルナの鼻腔をかぐわせた。その鮮やかに目を輝かせたまま、リセの横顔にふと注意が引かれた。彼女の首筋に湧き溢れる血潮は頬を茜に満たして、耳朶の膨らみから滴り落ちるようであった。街路の灯がリセの心に映って、彼女が情念まで明く照らし出しているのだと、それはなんだか、エルナにまで嬉しいことのように思われた。

「不思議だねえ」

エルナがそう言うと、リセはちょっと驚いた顔をして、それでもすぐにエルナに見透かされているのが分かったのか、

「不思議ねえ」

うっすら恥じらいの滲む笑い方をしてエルナの腕をとった。繋ぎ直したリセの掌はひんやりしていた。


 街の大動脈が南北と東西とで十字に交わっている。南北はあらゆる売買の活発な市庭である。東西の方は幾分か細まっていて、働きに出る街の男衆も、はるばる山を越えてきた商人も大抵はこの道を通ることになる。交わりの区画は四角にしているのでは見渡しが面白くないというので角を削られ、区役場が置かれ、さながら街の大広間といった様相を呈している。シャンは東から来るとディズィートリが言うので、子どもたちはここで待ち構えていることにした。見物人は道の両脇に寄せられて、駐屯署の憲兵たちが禁立入の赤い木柵を並べていた。

 暗闇がいよいよ深みまさって、灯の送列が明みまさった。大人も子どもも塗りたくったように同じ色をしていた。世の色彩は明と暗とだけに集約された。婦人会の面々がかちゃかちゃ鳴る長細い木箱を運んできて取り出したものを見物人に配り始めた。婦人たちはとりどりに化粧をして、艶やかに磨いて、自信と充実に満ち溢れて見えた。初め、エルナはそれを杖だと思った。然し、杖にしては長すぎるのと油の匂いがするのとでそれが実は松明であることが分かった。エルナの背丈より長い柄は金属でできていて、頂部には布を巻かれた木製の輪が、松明を立てると水平になるよう取り付けられてあった。大広場をぐるりと巡って、円衆の内縁が松明を持った者でひしめき合うようになってから、婦人たちは仕事を終えた様子で帰っていった。

 夜が極まって、太陽も地の裏で南中しているであろうと思われる頃、東の通りから何かが―正確にはそれに人々が湧き立っているのが―近づいてくるのが音に表れずとも感じられた。それで、彼らを高揚せしめた正体は全くの突然というわけでなく、寧ろある種の予感を伴って迎えられることになった。それは所謂食用のシャンとはまるきり様を異にしていた。第一、それは巨大であった。三角に隆起したその背に登れば、並び過ぎる屋根に手を触れることすらできるに違いなかった。体毛は白く、長く、綿のようを通り越してすけば流れるようであった。殊に首の周りでこの特徴は際立っていた。そのためシャンの頭は著しく肥大して見えた。驚くべきことに、このシャンは火への忌避を毫も示さなかった。炎に追い立てられるのではなく、導かれているようでさえあった。シャンを先導する白装束の男が、手に掲げていた篝火を松明の一人に移した。彼の頭上に炎の輪が出現した。彼は松明を傾けて隣の者に移した。移された隣の者も同じことをした。炎が伝播するのに足並みを合わせて、シャンは新たな熱の起こりに付かず離れず寄り添うて歩いた。そうしてそれは広場の縁をなぞるようにしてとうとうエルナたちの前までやって来た。明い世界と曖昧な世界とが視界の左右でせめぎ合っているのは現褥に非る聖性の感をエルナに与えた。さりながら、熱煙に弄ばれる火の粉の儚きを見て、やはり火なのだと思った。土の擦れる音や汗の干し上がったような匂いに触れて、やはり獣なのだと思った。シャンが一周を終えて、再び東口へ差し掛かった。

「残冠ができたね」

ディズィートリが皆に聞かせるように言った。

「一人ひとりに灯された冠が、集合たる光導に帰ろうとしているんだ」

「それで人は止揚されるってのかい」

イラハは挑発の意を含ませて、前のめりになって尋ねた。

「残冠は情報だよ。人物個を完璧に詰め込んだ、それで完成された情報さ」

マアトが口を挟んだ。

「混ざり合って生じるものなんて混沌でしかない」

両方から軽い非難の視線を浴びて、マアトはあくまで自分の見解だということをもごもご付け加えた。

エルナはこれを一歩退いた見地から聞いていた。イラハやディズィートリはなかなかの理想家だ、と彼女は思った。つまりはテンネル先生の言う魔法オズなるものが真成としてあって、彼らに題たる理学を総べて美しくするのを、そうやって完成するであろう情の世界を、彼らはどこか期待しているのだ。

そろそろ仲裁が必要とみえた。ところがこのときばかりは体を張って割り込むのは何の解決になりそうもなかった。

「ね、ちゃんと見ておかなくちゃ。とっても綺麗だわ」

呟くように言ったのは、リセであった。リセは何ものにも煩わされないロマンチストの輝きを振り撒いていた。少年たちは思い出したようにはっと顔を合わせた。そうしてお互いの内にある一つの寛容をみとめて、礼祭の熱狂に還った。

 

 地をさざめいていた光が煙の微小に纏わって、庁舎の屋根まで上昇する。高く、高く、とうとう空を見上げても本当の夜が判らなくなった。広げられた薄物の裏側に真昼の太陽が隠されているのだと、そう言われても納得のつくくらいに。シャンも、導き手の男も、あらゆる実体から隈が失われつつあった。それは現実が、精神の死によって薄らいでゆくのに似ていた。

彼らは―いや、私たちは一体どこを彷徨しているのだろう。耳目が世界の隔絶された外側で機能しているように感ぜられた。

 一斉に移動が始まって、押し合いへし合い揉まれているうちにエルナたちは大広場を離れた西の通りまではみ出してしまった。人混みを掻い潜って前に出ると、銀白のレースを被った一団が西の口に列を成しているのが見えた。体つきからして皆女性であるらしかった。シャンがその正面で足を止める。

「門を作るんだ」

ディズィートリがエルナに耳打ちした。

「門?」

「そう、あの人たちは十九前に子どもをなくしてる」

女たちは面を上げたまま啜り泣くような声を発した。シャンが怖じて後退る気配をみせようものなら、泣き声は一段と激しく、痛ましくなった。嘆きを十分長引かせた後で、シャンは突然思い立ったように彼女たちに歩み入った。途端に女たちの響きががらりと変わった。それは感情に相当するもののない、至極純粋な歌声であった。

―ああ、これは彼女の、彼の、それの、私の言葉だ―

己が心の内が自らの預かり知らぬ所で公に接続されて、顕になっているような心持ちがした。それは自分のでない言葉が自分の口を介して謳われるのに似ていた。

残冠の内側は幽冥の世界である。女たちはそこを目指して登ってきたのだ。そうであるなら、シャンはこの冠を外れてはならない。西の通りを傾けている存在しない筈の引力をエルナは精神に感じることができた。

シャンが女たちに引かれてゆく。薄寒い思いに耐えきれなくなったエルナは同じ戦慄の色を求めて仲間のうちを見遣った。彼女の視線はまずディズィートリに送られた。そしてそこで凍りついた。

「どうして、笑ってるの」

「周りを見てごらんよ、エルナ」

エルナが息を詰まらせるのを見て、ディズィートリの笑顔は彼女を案じ落ち着かせようとするそれに変わった。

「彼女たちがしているのは後悔じゃない、清算だよ」

エルナの眉がひくりと震える。

「喜ばしいじゃないか」


  正しい世界は、私の知らない世界である。人の、真に真なるを以てのみ正しいというなれば、私は幼く、あまりに無知であったから、どうやったって正しくなんて有れないのだ。呼ばうに答えないものへそれでも手を伸ばしてみるだけの気概が、詰まるところ私には無かったのだろう。私の罪深い手は彼らの上に土を盛った。それは或る時は敬虔な気持ちから、また或る時は身を腐朽さる嫌悪からそのようにするのだった。故に、私の知る世界に於いて、私は常に正しくなかった。

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