草創章 068 10/12 007
「まあ、あまり気に病むなよ、マアト」
ディズィートリが言うと
「そうよ、初めてだったんだから。笑われて、けれどすぐに忘れられるのよ」
とリセも加勢した。それでもマアトが頑なに顔を上げようとしないので、エルナは彼の方を見遣って独り言のように言った。
「私も失敗したことあったなあ。油を取るならみずみずしいのをと思って、先も割れてないようなのばっかり二袋も」
「採っちゃったの」
マアトが尋ねた。
「うん。兄さんたちにも笑われて、落ち込んだなぁ」
ふつと口を窄めてディズィートリが笑った。
「初耳だよ、エルナ。それっていつ?」
―いつ?―
強い力で肩を揺すぶられたように感じた。どれほど彼女が、過去に無頓着であったろう。既往不咎というのんびりしたのとは別な、いや寧ろ対極的なこの潜在観念は、一種の生存欲求が如く彼女の精神に切実であった。既知なる過去に対する忌避が未知なる未来への恐れに先行するというのにはある種の逆説が感じられるが、或いは彼女にとっての過去が一般軸でいうところの未来であったり、彼女は知らず運命のとば口を通り過ぎていて、己が足跡を認識することでそれが作動してしまったりするのかも知れなかった。
「私が君に出逢う前の話だよ」
「ねえ、エルナ。私はいた?」
「リセ?ああ、リセはいたんじゃないかな。私はエルナと出会ったばかりで―」
―陽射しが真新しい童着にじりじりと照り返して、天地がいっぺんに燃えているようである。私は背の高い二人の少年に引かれて、繋いだ両腕を万歳の形に挙げて、銀灰に灼けた石段をつま先だけでひょいひょい跳ね降りてゆく。兄さん、と私のあどけない声が言う。そして私たちは身体ごとで爛熟した熱大気に溶け込んでいる―
追想の扉が軋みをあげる。決壊する、覚醒する、恢復する。ディズィートリやリセやマアトが賑やかにしているのが聞こえた。場の雰囲気が幸いしたのか、エルナの言葉は軽い冗談のように一笑に付された。
「ごめん、混乱してるみたいだ」
ディズィートリの目が我が子を見守る父親のように潤びた。
「俺も少し疲れてるかもしれない。だってもう、いつもなら寝ていい頃じゃないか」
ディズィートリが伸びをして板敷の上に倒れ込むと、見計らったように彼の背後にあった引き戸が開かれた。
「遅いわよ、イラハ」
リセの鋭い声が飛ぶ。
「悪い、うちのレモードがどうしても許してくんなくて。グラーシュは良いって言ってくれたんだけど」
「で、どうしたの」
エルナが尋ねる。
「抜け出してきたさ、こっそり。朝まで気づかれないか五分五分ってとこだな」
それを聞いたディズィートリが目を剥いて言った。
「お前んとこのレモードってオトリ・レモードじゃないか。やだよ、俺、怒られるの」
「大丈夫、大丈夫。それよか、ここまで来るときに人が集まって明るいのが見えた。もう始まってるんじゃないか」
「祭りは夜通し続くよ」
行こう、と言ってディズィートリが起き上がる。
「それに、ここからが面白いんだ」
「ひゃあ、本当に真っ暗だわ」
「じいちゃんにカンテラを貰ってんだ。火を入れるから、寄っとくれよ」
ディズィートリがズボンのポケットをごそごそとまさぐる。エルナたち四人は養生所で童着として支給される丈の合わない野良着掛けを身に纏っているのだが、ディズィートリだけはいつも皇国風の綺麗な身なりをしていて、その着こなしは養生所の少年少女の羨望の的であった。ポケットから引き抜かれた彼の手に握られていたのは薄っぺらな金属の箱のようなものである。マッチ箱かと思えば中央で折れ曲がって、中から線ばねのついた機構が現れた。
「ライターね」
「うん、よく知ってるね」
エルナも彼らの頭上から覗き込もうとした。ちょうどそのとき、男の太く落ち着いた声が彼女の耳を捕まえた。
「エルナ君」
彼女たちが出てきた部屋のドアが閉まりきらなくてつけっぱなしにした灯りが糸のように細く漏れ出しているそこに、ハイラーテ先生が佇んでいた。イラハが何か言いたそうにして、またすぐに顔を戻した。先生のところへ行こうとして、エルナは今来た廊下を半分ばかり戻った。
「これを持って行きなさい」
両手を出して受け取った。親指に当たる留め紐を解くと、濃紺の布襞が回転しながら広がる。
「傘ですか」
「二本しかないから、君とリセが差して行きなさい。祭りにはあると助けるだろう」
「雨の支度なら、心配せずとも良いようですよ」
解いてしまったそれを手の内に撫でつけながら、エルナは怪訝そうな目を遣った。
「これは雨傘ではない。寧ろ雲があったら要らないのさ」
先生はエルナの反応をどこか面白がっているようでもあった。
「ほら、十前に月見るは忌むこと、というだろう」
迷信だが、と言って苦笑する。エルナが傘を小脇に抱えて辞そうとしたとき、また彼女の名前が呼ばれた。
「君はディズィートリに良くしてくれるね」
「とんでも無いことで。私のほうが良くして貰ってるんです」
かまちにわっと感嘆の声が起こって、炎の橙色が薄湿った廊下を舐め上がった。ハイラーテ先生の白いシャツにおとされた己の輪郭を見つめながら、エルナは今自分が先生にどのように見えているのだろうということを考えていた。
「できるだけ長く、ディズィートリを気に掛けてやって欲しい」
目の前に差し出されたハイラーテ先生の右手を包み込むようにしっかりととって温もりを込める。軽く揺すぶってみると相応の力が返ってきた。―ハイラーテ先生は―エルナは思う。ハイラーテ先生にはただありのままでいるだけで人に様々の念を起こさせる力がある。それは無より生じて結末へ至る魔法のようだと、そう思うのだ。
ハイラーテ先生は四十二の初老で、早いうちに息子を亡くしている。今は孫のディズィートリとアデルフィアで暮らしている。ハイラーテ先生にはディズィートリと十違いの孫がいる。ディズィートリの兄にあたる彼は然し皇国に兵隊に取られている。ハイラーテ先生は古体文学に堪能である。ハイラーテ先生は養生所の子どもたちに愛されている。そして何より、ハイラーテ先生の父親のそのまた父親は帝国人である。
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