草創章 068 10/12 006
ハイラーテ先生の手習小屋は養生所から東の尾根を越えた、これまた山の中腹にある。木々に半ば埋もれかけた、割合に小さな小屋である。もとはアデルフィアに遣わされた僑国の官吏が区を一望できるこの場所に設けたのが、アデルフィアを去って十年ばかり過ぎて、草葺きの屋根なども緑生して、むぐらの門と成り果てていたのを、ハイラーテ先生が手づから改修して住み始めたのだという。壁が取り払われているのか、柱屋根が出張っているのか、山に面していないほうの半分が骨組みだけになっていて、子どもたちが集められたのもその場所であった。
「今日は働いてもらうぞ」
ハイラーテ先生は快活に歯をのぞかせて笑った。床の捲れ上がるような音がして、近づいてくる方へ目を遣るとディズィートリが大鍋を転がして運んでいた。
「油集めだ。何人かは蒸し湯を沸かすから、残っててくれ」
子どもたちは唇を尖らせて不平をたれる素振りをした。けれども机に齧り付いて古体文の小難しい註釈を聞いているよりは野良仕事とはいえ外で体を動かせるほうがよっぽど楽しいに違いない、というのが彼らの本当のところであった。
「そいじゃ、行っといで」
けたたましい声でふざけ合いながら、手に手に空っぽの学物袋を掴んで、時々振り回したりなどしながら、野に放たれた野生よろしくはしゃぎ飛び出してゆく。エルナも後に着こうとした。そこでディズィートリに呼び止められた。
「泊まるって、じいちゃんに話しといたから」
「分かった、ありがとう」
「ちょっぴり増えたよ」
「今何人?」
俺と、エルナと―イラハの名前を彼が口にしたとき、エルナは驚く以上にそのことを訝しまずにはいられなかった。ディズィートリとイラハの交友についてはついぞ彼女の了解の及ばないところであったし、日頃全く接点を匂わせない彼らがこのときの為だけに連絡を持つというのも理屈が通らないように思われた。
「五人だな」
「そう」
なんでもないふうを、上手く装った。そうすると本当になんでもないような気持ちがして、実際そうなのだけれど、急にからっとして、面白くなった。
「楽しみだね」
偽らざる本心からそれだけを言って、先に行ってしまった子たちのしていたように、袋があるほうを大手に振って、自分の落とす影が木々の翳りに薄れて無くなってしまうまで振り返らなかった。
トウマヒツジは主に山地に自生する低木である。暑い盛りを一月過ぎたあたりが収穫に適している。熱月に紅色の肉厚な花を咲かせて、苑月の初めに落とす。花のあった部分は球状に膨らんで、それから数日と待たないうちに先のほうから四つに割れ始める。この分かれ具合を見定めるのが寛容なのだ。割れ目が根元まで達していない、未熟な種から集められる油は少なくて、しかも色味が足りない。逆に熟れすぎて開いてしまっているようなのからは黒ずんで、使い古された匂いのが採れる。エルナたちはこの違いを幼い時分から感得していた。下から抱えるように茎を指で挟み持って、軽く捻ってやると、ぷきり、と中空な音がして種子の球は掌に転がっている。トウマヒツジは五から十の株が群生しているから、場所に恵まれればそこにしゃがんでいるだけで袋の半分は満たせる。
―そろそろ戻ろうかな―
エルナの学物袋は既に口紐を引けないまで一杯であった。辺りには土に還りきらなかった花の首が、生暖かい土に熟れて、錆びたような色に縮れたり、埋もれかけたりしている。しゃがみ腰のまま、それらを踏まないように袋ににじり寄る。途中他になく留まっていて生の鮮やかなのを見つけて、如何なる気まぐれの致すところかそれが無性に喜ばしかったので、丁寧に土から拾い上げて、集めた子実の頂にちょんと乗せた。
そのときであった。風がぴたりと止まった。山を動物たらしめていた緊張が途絶えて、草木はたちまちに凪いだ。自分をすっぽり包み込んでいた界の息吹がどこか遠くへ連れ去られるのを感じて、エルナははっとしたふうに顔を上げた。彼はそこに居た。彼は大人に足を踏み入れかけた青年の風体をしていた。あまり意想外の邂逅に、エルナの知覚は十全に働くのを忘れた。それに伴って彼女の意識までがぼうっとしてきた。夢幻に映るところの彼は、第一に自身を表象するとっかかりのようなものを徹底的に欠いていた。然るに、それは人間であるに相違なかった。エルナは乱心した。あたかも分を乱したのがこちらであるような居た堪れなささえ感じた。恐ろしくて息を潜めていたのかもしれない。或いは腰を上げて誰です、あなたは―くらいのことは言ったのかもしれない。いずれにせよ、彼の印象は仔細の定まらぬまま彼女に鮮烈に焼きついたのであった。
エルナはぺたん、と尻餅をついた。自分が立ち上がっていたのが俄には信じがたかった。蓋し彼女は寝惚けていて、たった今正体を取り戻したのであろう。学物袋を取り寄せて、前背負いに背負おうとした。袋が彼女の手をかけたはずみで揺れて、トウマヒツジの中身がからからと笑った。てっぺんに赤い厚みを持った植物の肉片が座して居た。エルナはそれを、夢の中で知っていた。萎れがちであったのがしゃんと立って、花は生々しいまでの生命を迸らせていた。紅がみるみる深くなって、遂にはその色で濡らすように感ぜられたので、エルナは慌ててそれを収穫物の上から払いのけた。花首は彼女の意想外にずっしりしていた。傾いたと思うと彼女の足元に直線的に落下し、湿った音を立てて地面にへばりついた。それが合図であったようにあらゆる生物の気配が彼女の耳に蘇った。異変は識閾をすり抜けて去った。エルナはもう一度背筋を強張らせて、足早にその場を後にした。
もうもうと狼煙が上がっているので、小屋の見えないうちから鍋の煮えているのが分かった。風呂釜にしても良さそうな大きな鍋が屋根のないところへ引き出されて、集められたトウマヒツジの実が外壁にもたれかかるように積み上がっていた。
「九着よ、エルナ」
ハイエ・ブラージュがエルナから袋を受け取ろうと手を伸ばした。彼女はエルナたちの隣、二十六番の
「それよか、見ろよ」
ヨマがエルナの肩を叩いた。
「ほら、あれ、マノウが拾ってきたんだぜ」
あいつ初めてだから、と言ったヨマは腹をくの字に曲げて笑いの治まらないようであった。エルナは彼が指差すほうへ視線を遣って、すぐに頬を引き攣らせた。外れの壁沿いの少し湿った地面の上、土に蝕まれかかった紅の花弁が、動物の死骸のような塊をして横たわっていた。
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