草創章 068 10/12 005

 学舎から吐き出される子どもたちに混じって歩きながら、エルナは頭を振り振り考えていた。考えることは然し、一向に進展をみせなかった。ただいつもならずものごとが整合していないという認識だけが片隅にひっそりとひりついていた。伸ばせど届かないこの漫然とした不快が、全て向こう数日ばかりのために生じているのだと思うと、どうにもやりきれない気持ちがした。そして一層のこと、ディズィートリとの計画を遂行する覚悟を強くするのであった。覚悟はにわかづくりのものであってはならなかった。聢と己に内省して、それによってのみ正当であらねばならなかった。

 さほど遠くないところに童舎が見える。ここからはどこへ行くにも方角がばらばらになるので、エルナの向かうほうへは人が空いて、肩で涼しい風をきりながら歩けるようになった。童舎は三棟、三位に離れて建てられ、それぞれ”一号舎オード”、”二号舎アート”、”三号舎クエース”と号されている。二階建てで、部屋が横一列に並んだ細長い作りをしている。一号舎オードは昨年の夏に増築が行われて、そのせいで余計に埃っぽくなった。二号舎アートに住む者は可哀想である。山の斜面と学舎とで挟まれた部屋で、日がな無機質な壁を眺めている。三号舎クエースは以前に床板の抜けたことがあって、以来曰く付きの部屋を抱えているという。昔の話であるから、エルナも詳しいことは知らない。彼女は一号舎オードの住人である。一号舎オードの二十六番、それがエルナ・ブラートの家族バーダの所在である。

 童舎に入ると、自分の居た外と対比して暗く、濁く、薄湿っているのが否が応にも感じられる。階段を羊蹄と軋ませながら上階に頭を出すと、今までどこに息を潜めていたのか、驚くほど雑多な喧騒が低いうねりになってどうと押し寄せる。それはふざけ合う声であったり、喧嘩する声であったり、はたまた人の生活しているだけの音であったりもする。耳をすませば、こういった音の一つ一つは実は混じり合いなどせずに、一つとて同じでない家族バーダたちの暮らしぶりを、絆を、至って率直に反映している。部屋に向かう間、廊下に漂う音のぬくもりに耳を預けるのはエルナのささやかな喜びであった。

 ドアの向こうに立つと、その向こうだけ切り取られたように黙りこんだ。幼い足音が小走りに迫って、ノックを打とうとしたエルナの指は空を掠めた。そして彼女の正面には三男クェーサーのテオが息を弾ませていた。

「お帰りなさい」

「お帰りなさい」

テオ・クエーサーが元気よく発するのと同時に奥の方でも言っているのが聞こえた。

「ただいま」

テオがエルナをつつく。

「何、どうしたの」

「袋」

すぐには何を言っているか分からなかったが、テオが指差すので思い当たって、持ち帰りの教本や水筒やらで口の閉じきらない学物袋をずり下ろすと、下にテオの腕が待ち構えていてそれを恭しく抱え持った。

―こんなこと、どこで覚えたのだろう―

「ああ、ありがとう」

エルナは待っていた。待ってから、仕方なく彼を通り越して上がると、ようやく、しかも少し離れたところを選んでついてくる。弟の突然の嬌態は、エルナには慇懃無礼な悪ふざけのように映った。それでついてくるテオを抱き止めて前に行かせ、取り返した袋を元のように自分で背負い直した。本当は昔のように抱き上げてみたかったのだけれど、それも叶わないくらいテオは大きくなっていた。

「何するのさ」

「なよしい真似するんじゃありません」

テオの肩に腕を回して、内側に血潮の脈打つのを感じながら、お腹でぐいと押してやった。

「フィー姉、エルナ姉さん帰ってきたよぉ」

「さっき言ったわよ、お帰んなさいって」

小卓の下で茶けた頭髪がふわふわと揺れる。

姉さんレーリエ、テオったら私が買ったの滅茶苦茶にしていくのよ。落としてるし、信じらんない」

「そりゃあまた。私も手伝うよ。ほら、テオも来なさい」

 エルナがテオの手首を掴んでばたばた揺らすと、テオは床を蹴ってぶら下がろうともがいた。

「あったんだねえ、皇産の二等葉。高かったでしょ」

落ちていたのを拾い上げて、エルナが顔を綻ばせる。

「別に。私が言ったらまけてくれたわ」

二百よ、と言ってフィリア・ブレイズは指をつくった。

「お前の口は重宝するねぇ」

姉さんレーリエがお人好し過ぎるのよ」

エルナや長兄レモードが五百を出して買うようなものでも、必ず百か二百は値打ちにするのがフィリアの才能であった。宿母長オード・モアから支給される小遣いには限りがあるので、彼女を買い出しに行かせればこれほど頼みになることはないのだが、生憎と学期の休みは二日ずつしか巡って来ない。

「私、お湯貰ってくるよ」

「そんなら豆も入れてちょうだい」

エルナが立ち上がろうとしたときであった。あ、とフィリアが短い声を漏らした。テオがまっしぐらにドアへ駆け寄る。

「ただいま」

アール・レモードの声が、ドアが開くのと一緒に聞こえた。

「どうやって分かるのかしら」

フィリアがおかしげに首を傾げた。


  ここアデルフィア養生所では、子どもたちは五人家族アリスバーダに編成され、各々の年齢と性別に合わせて”長兄レモード”、”次兄ブラート”、”三男クエーサー”、或いは”長女グラーシュ”、”次女ブレイス”といった姓を与えられる。”家族バーダ”は五人組を原則とし、成員に不幸等があると適宜追加や繰上げが行われる。とは言っても男系・女系の混同は避けられており、エルナら家族バーダの構成は皆の不思議の種であった。当のエルナも未だはっきりした説明を聞かされていないし、その程度のものだと思っていた。

「昼はもう混み合ってるだろうから、また食堂に言って作って貰ってきた」

アール・レモードが小卓におろした学物袋には教本とせめぎ合うようにして大きな紙袋が詰め込まれていた。ごわごわした包装を解くと穀物の炒られた香ばしい香りが鼻をかぐわせて、拳大のパンがごろごろと転がり出た。焼き加減が絶妙なのか、表面には狐色の濃淡があって、あちこちが不揃いに飛び出している。

「いつものだけど」

アールが弁解めかして言う。彼がこうやって気を回してくれるのはいつものことであるから、つい礼を言うのがおざなりになって、それをフィリアは少しだけ申し訳なく思った。テオがアールの胡座をかいた膝に登って堂々と一つを掻っ攫った。すぐに捕まって兄の股ぐらに落ち着けられる。

 机に、触れたともつかない程作法の良い硬質な音がして、一瞬遅れて柔らかな湯気の粒が兄妹の間を遮った。皇国ものを思わせる渋艶の丸盆に他所むきの白磁が三つ、滑らかな膨らみに豆茶の重量を湛えている。

「良いのを買ってきてくれたからって、そう言ったら貸してくれたんだ」

早急でも、緩慢でもない動きで姉の腕が卓面すれすれを滑っていって、またもとのように前で合わせられるまでをフィリアは何となしに見送った。カップの白が冴えていた。エルナの肌はいつになく血が通って見えた。アールが掌で覆うようにカップを取って、縁を唇に掛けようとしたとき、フィリアはエルナの視線が熱心にそこへ注がれているのに気づいて、姉の心に何か含ませる藻があるのではないかと疑った。案の定と言うべきか、エルナは彼女の思いがけないことを言った。

「兄さん、今夜は私、ハイラーテ先生のとこに泊まる」

アールの右手がカップを握ったまま宙に静止した。

「突然だな」

「祭りがよく見られるって、ディズィートリが」

「明日の荷物はどうする。出発は朝早いんだぞ」

「もちろん、作ってから行くよ」

兄がにべもなく跳ねつけるのを期待する、後ろ暗い心がフィリアの内に起こった。殊更姉が祭りという言葉を口にしたとき、それは急激に膨張して彼女の本心を危ぶませた。アールは思案しているようであったが、やがて一意を決定したらしく手に持っていたカップを盆に戻した。豆茶は一度も縁を染めることなく、僅かな波紋を形成したのみであった。

「まあ、いいよ」

「兄さん」

思わず言葉にしてしまったのを、取り隠してしまいたかった。

「思い出を作る時間は限られてるんだ。無理に止め立てはしないさ。最後くらいは、好きにしなさい」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る