草創章 068 10/12 005
学舎から吐き出される子どもたちに混じって歩きながら、エルナは頭を振り振り考えていた。考えることは然し、一向に進展をみせなかった。ただいつもならずものごとが整合していないという認識だけが片隅にひっそりとひりついていた。伸ばせど届かないこの漫然とした不快が、全て向こう数日ばかりのために生じているのだと思うと、どうにもやりきれない気持ちがした。そして一層のこと、ディズィートリとの計画を遂行する覚悟を強くするのであった。覚悟はにわかづくりのものであってはならなかった。聢と己に内省して、それによってのみ正当であらねばならなかった。
さほど遠くないところに童舎が見える。ここからはどこへ行くにも方角がばらばらになるので、エルナの向かうほうへは人が空いて、肩で涼しい風をきりながら歩けるようになった。童舎は三棟、三位に離れて建てられ、それぞれ”
童舎に入ると、自分の居た外と対比して暗く、濁く、薄湿っているのが否が応にも感じられる。階段を羊蹄と軋ませながら上階に頭を出すと、今までどこに息を潜めていたのか、驚くほど雑多な喧騒が低いうねりになってどうと押し寄せる。それはふざけ合う声であったり、喧嘩する声であったり、はたまた人の生活しているだけの音であったりもする。耳をすませば、こういった音の一つ一つは実は混じり合いなどせずに、一つとて同じでない
ドアの向こうに立つと、その向こうだけ切り取られたように黙りこんだ。幼い足音が小走りに迫って、ノックを打とうとしたエルナの指は空を掠めた。そして彼女の正面には
「お帰りなさい」
「お帰りなさい」
テオ・クエーサーが元気よく発するのと同時に奥の方でも言っているのが聞こえた。
「ただいま」
テオがエルナをつつく。
「何、どうしたの」
「袋」
すぐには何を言っているか分からなかったが、テオが指差すので思い当たって、持ち帰りの教本や水筒やらで口の閉じきらない学物袋をずり下ろすと、下にテオの腕が待ち構えていてそれを恭しく抱え持った。
―こんなこと、どこで覚えたのだろう―
「ああ、ありがとう」
エルナは待っていた。待ってから、仕方なく彼を通り越して上がると、ようやく、しかも少し離れたところを選んでついてくる。弟の突然の嬌態は、エルナには慇懃無礼な悪ふざけのように映った。それでついてくるテオを抱き止めて前に行かせ、取り返した袋を元のように自分で背負い直した。本当は昔のように抱き上げてみたかったのだけれど、それも叶わないくらいテオは大きくなっていた。
「何するのさ」
「なよしい真似するんじゃありません」
テオの肩に腕を回して、内側に血潮の脈打つのを感じながら、お腹でぐいと押してやった。
「フィー姉、エルナ姉さん帰ってきたよぉ」
「さっき言ったわよ、お帰んなさいって」
小卓の下で茶けた頭髪がふわふわと揺れる。
「
「そりゃあまた。私も手伝うよ。ほら、テオも来なさい」
エルナがテオの手首を掴んでばたばた揺らすと、テオは床を蹴ってぶら下がろうともがいた。
「あったんだねえ、皇産の二等葉。高かったでしょ」
落ちていたのを拾い上げて、エルナが顔を綻ばせる。
「別に。私が言ったらまけてくれたわ」
二百よ、と言ってフィリア・ブレイズは指をつくった。
「お前の口は重宝するねぇ」
「
エルナや
「私、お湯貰ってくるよ」
「そんなら豆も入れてちょうだい」
エルナが立ち上がろうとしたときであった。あ、とフィリアが短い声を漏らした。テオがまっしぐらにドアへ駆け寄る。
「ただいま」
アール・レモードの声が、ドアが開くのと一緒に聞こえた。
「どうやって分かるのかしら」
フィリアがおかしげに首を傾げた。
ここアデルフィア養生所では、子どもたちは
「昼はもう混み合ってるだろうから、また食堂に言って作って貰ってきた」
アール・レモードが小卓におろした学物袋には教本とせめぎ合うようにして大きな紙袋が詰め込まれていた。ごわごわした包装を解くと穀物の炒られた香ばしい香りが鼻をかぐわせて、拳大のパンがごろごろと転がり出た。焼き加減が絶妙なのか、表面には狐色の濃淡があって、あちこちが不揃いに飛び出している。
「いつものだけど」
アールが弁解めかして言う。彼がこうやって気を回してくれるのはいつものことであるから、つい礼を言うのがおざなりになって、それをフィリアは少しだけ申し訳なく思った。テオがアールの胡座をかいた膝に登って堂々と一つを掻っ攫った。すぐに捕まって兄の股ぐらに落ち着けられる。
机に、触れたともつかない程作法の良い硬質な音がして、一瞬遅れて柔らかな湯気の粒が兄妹の間を遮った。皇国ものを思わせる渋艶の丸盆に他所むきの白磁が三つ、滑らかな膨らみに豆茶の重量を湛えている。
「良いのを買ってきてくれたからって、そう言ったら貸してくれたんだ」
早急でも、緩慢でもない動きで姉の腕が卓面すれすれを滑っていって、またもとのように前で合わせられるまでをフィリアは何となしに見送った。カップの白が冴えていた。エルナの肌はいつになく血が通って見えた。アールが掌で覆うようにカップを取って、縁を唇に掛けようとしたとき、フィリアはエルナの視線が熱心にそこへ注がれているのに気づいて、姉の心に何か含ませる藻があるのではないかと疑った。案の定と言うべきか、エルナは彼女の思いがけないことを言った。
「兄さん、今夜は私、ハイラーテ先生のとこに泊まる」
アールの右手がカップを握ったまま宙に静止した。
「突然だな」
「祭りがよく見られるって、ディズィートリが」
「明日の荷物はどうする。出発は朝早いんだぞ」
「もちろん、作ってから行くよ」
兄がにべもなく跳ねつけるのを期待する、後ろ暗い心がフィリアの内に起こった。殊更姉が祭りという言葉を口にしたとき、それは急激に膨張して彼女の本心を危ぶませた。アールは思案しているようであったが、やがて一意を決定したらしく手に持っていたカップを盆に戻した。豆茶は一度も縁を染めることなく、僅かな波紋を形成したのみであった。
「まあ、いいよ」
「兄さん」
思わず言葉にしてしまったのを、取り隠してしまいたかった。
「思い出を作る時間は限られてるんだ。無理に止め立てはしないさ。最後くらいは、好きにしなさい」
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